銭亀沢でのマコンブの呼び名は、ただの「コンブ」である。「マコンブ」の名も「真昆布」に由来することから、本当の、まともな、昆布中の昆布という意味合いが読み取れる。古く昆布はヒロメなどとも呼ばれていたがコンブの語源はアイヌ語という説もある。羽原(1940)および大石(1987)によれば、銭亀沢のコンブ漁場としての開発の歴史は古く、製品は「宇賀(うが)昆布」「志苔(しのり)昆布」の名で広く知られており、現在でも数百年前に運ばれた昆布が富山の昆布蒲鉾などに珍重されているという。また、川嶋(1989)によれば、最初にマコンブの和名を付けたのは宮部金吾博士によるようで、水産上は「ホンコンブ」(本昆布)、あるいは砂原から椴法華までのマコンブを元昆布、汐首岬から函館の大森浜までのものを「宇賀昆布」または「志海苔昆布」として区別していたと言う。羽原(1940)が、江戸時代の文献『蝦夷嶋奇観』から「シノリ昆布。箱館東海に産す。長七尋余。巾一尺三四寸、緑色、味甘味、此昆布は唐山に送る。」と引用しているように、銭亀沢産のマコンブは、日本海航路で大阪、長崎に運ばれて加工され、一部は遠く中国にまで輸出された高級ブランドであった。このように、当時のコンブの呼び名に銭亀沢の地名「シノリ」が残っていることは、銭亀沢のマコンブが日本および中国の食文化にまで歴史的影響を与えた証拠とみなしてよいであろう。
なお、現在のマコンブの価格では最高が南茅部町の「白口浜」、次いで椴法華村、恵山町の「黒口浜」、銭亀沢は「本場折り浜」といわれ、いわば第三ランクの漁場に相当する。一般に養殖促成コンブの製品形態は長切りと呼ばれる九〇センチメートルに切ったものが普通であるが、銭亀沢の天然コンブは古来から「本場折り」「花(鼻)折り」とも呼ばれる長さ約五五センチメートルに折り畳んだ独特の形態がある。大石(1987)にしたがって昆布食文化の発展史と漁場開拓史をたどった場合、「だし昆布」としてのホソメコンブ、次いで「細工昆布」としてのマコンブ、味は劣るが生産量の多いナガコンブと続いてきたが、昆布そのものを食べる食文化が本格的に発生したのはマコンブからである。先人がコンブそのものを食べ始めたこととマコンブの味の良さは無関係とはいえないであろう。ほぼ最初に開拓された真昆布漁場がこの銭亀沢であり、最初に日本人が食物として口にした昆布が「宇賀昆布」「志苔昆布」であったとすれば、貴重品である真昆布を無駄なく利用しようとした先人の知恵が「本場折り」「花(鼻)折り」という独特の製品形態を今に残していることは十分うなずける。