2、箱館六ケ場所を『村並』に

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 1799年(寛政11年)、幕府は東蝦夷地をその管轄下におくと、次々に施策を実施していった。その1つが、「箱館六ケ場所村並」の認可である。
 
 一、箱館最寄口蝦夷地之内ノタヲイ迄、日本人多く罷在ニ付、村役人等申渡、箱館在々同様取扱候ニ積御座候事
  右之通取計申候ニ付申上置候以上
   (寛政十二年)申三月        松平  信濃守
                     石川 左近将監
                     羽太 庄左衛門
 
 「村並」とは、松前藩が江戸幕府に提出(松前島郷帳)している蝦夷地アイヌ居住地)と定めた箱館六ケ場所、野田追までを和人が多く定住している実態から、松前城下の「日本人村と同格」にするということである。以下、その記録である。
 連記している松平・石川・羽太の3名は、寛政11年1月に任命された蝦夷地取締御用掛である。この記録によれば、村並の認可は寛政12年、1800年と定めているが、正式に村並が施行されたのは、翌年の1801年(享和元年)のようである。
 このことについて、河野常吉は、六ケ場所の村並を享和元年(1801年)とし『北海道史附録年表』同年の項に、次のように記載している。「是歳(このとし)幕府、六箇場所 小安・戸井・尻岸内尾札部茅部野田追の地、和人の居住するもの多きを以て村並となし、山越内を以て華夷の境界となす」とあり、和人居住地と蝦夷地の境界を山越内、現八雲町山越と記している。1800年あるいは翌1801年いずれにしろ、幕府はこの地域の漁業生産・和人の定住状況から村並と認可。松前藩の場所請負制度は廃止・奉行直轄の直捌(じきさば)き制を実施、村役人が置かれ漁民には漁業権が与えられ、村の自治が進められるようになったわけだが、六ケ場所の呼称はそのまま続けられた。
 
 箱館ヨリ東ノ方ニ六箇場所ト唱フル所アリ、此所、昔ハ夷人アリテ住居セシカ近来松前家領タリシトキヨリ日本人モ打交リテ稼業ヲナシケリ。コノセツ公領トナリシヨリ、此六ケ場所ハ日本地トシテ村号ヲ給リタリト云、尤箱館近在ナル故夷人ノ風俗モ自然日本ニ近ク言語モ大抵ハ通ズルナリ。地名ハ「ヲヤス」「トイ」「シリキシナイ」「ヲサツベ」「カヤベ」「ノタヲイ」此六ケ所ナリ。
 
 なお、六ケ場所の当時のようすについて1801年(享和元年)滕(とう)知文著の『東夷周覧』には上のように記録されており、郷土一帯がすでに和人集落化していたことが頷ける。

寛政11年(1799)幕府の調査一行が描いた恵山


「東游竒勝」より


秦檍丸の描いた恵山「蝦夷島竒觀」より