歴代の村長とその業績・村政の状況

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第11代村長 十倉十六美(昭和2年11月15日~同5年12月18日)
 菅原直次郎村長の後を受けて第11代村長に就任したのが十倉十六美である。
 十倉は、青森県下北郡川内町大字宿野部村の出身である。大正8年来道、同年12月、日高支庁新冠村役場に奉職、翌9年12月、同静内村役場に転任、役場吏員として僅か3年の勤務後、その手腕をかわれ大正11年4月には浦河郡荻伏村村長に命ぜられ、同村の土功組合長・農会長の要職も兼務する。また、この年6月、東宮殿下(昭和天皇)北海道行啓に際して奉迎団総務委員の大役を仰せつかり、大正11年7月22日新冠御料牧場凌雲閣に於いて特別拝謁を賜った。翌12年には新冠村長に転じ、14年様似村長と日高国を歴任。昭和2年11月15日菅原前村長の後を受け尻岸内村長に就任した。
 十倉は雄弁家として知られると共に毒舌家との声も聞かれるよう、独特の豪腹さで向うところ成らざるはなく、行政手腕と共に外交手腕も他の追従を許さない、優れた行政職・政治家であった。また、外での飲酒の機会が多かったからか、酒豪としても知れ渡っていたようである。しかし、十倉が村長在任中におこった大災害がきっかけとなり、昭和5年12月18日尻岸内村を去る(註)。
 
(註)昭和4年(1929年)6月、駒ヶ岳大噴火により東渡島沿岸一帯の昆布礁が被害を蒙り、その災害復旧に30万円の巨費を投じ4か年継続で投石事業が行われることとなる。ところが、この災害復旧費の使途に不明朗な事実があるとして司法当局の捜査が入る。
 
第12代村長 丹野助七(昭和5年12月17日~同6年6月5日)
 十倉村長退任により第12代村長に就任した丹野助七は、宮城県名取郡明上町字高枡村出身である。行政職の振出は、大正5年地元宮城県志田郡役所に奉職、勧業課長の要職を勤める。同7年北海道庁技手として招かれ、翌8年には北海道庁属となって産業開発計画などに敏腕を振るった。大正13年には渡島支庁第2課長として赴任後、昭和2年上磯郡茂別村(現上磯町字茂辺地)村長に転じ、昭和5年12月17日尻岸内村長を命ぜられ着任する。丹野は事件のことを熟知しており、着任後、荒木上席書記とともに尻岸内村行政の威信回復のため、懸案の船入澗築設に関する村内有志の意見調整や教育施設の充実、道路整備等、積極的に取組もうとするが、在職すること僅か半年、6年6月5日職を辞して離村する。
 
第13代村長 斉藤照蔵(昭和6年6月5日~同9年11月10日)
 13代村長として着任した斉藤照蔵は、秋田県由利郡平沢町の出身、鰊千石場所として知られた後志支庁歌棄村に渡って来て、明治37年熱郛外1村戸長役場に筆生として奉職、同39年には近衛師団野砲兵第14連隊に入営したが病気のため除隊、帰郷し回復に専念、健康を取り戻し、42年札幌郡手稲村役場に奉職、翌43年に亀田郡湯の川村に転じ、昭和3年、亀田郡大野村(1級町村)助役に当選する。真摯謹直で偽らざる気質・行政手腕をかわれ昭和4年大野村長に当選、1年余り勤務の後、昭和6年6月5日尻岸内村長を命ぜられ、丹野前村長の後を引き継ぐ。
 当時、尻岸内村は不祥事以後の沈滞的な雰囲気、併せて昭和恐慌、財界の不況・漁業の不振により村財政は惨澹たる状況であった。斉藤はこれらの状況を踏まえ、終始誠意を持って献身的努力を重ね、多年懸案の船入澗の築設の世論を統一、ついに工事に着手する。また、昆布礁災害復旧の後半工事を着々と遂行して初期の目的を達成する。
 また、昭和8年、北海道庁佐上長官来村視察の際には、村の重要懸案事項について巨細漏らさず、詳さに実情を訴える斉藤の真情、容姿を崩さぬ謹厳誠実な人柄から、長官の理解を得ることができるなど、多くの業績を残しつつ在職3年4か月、昭和9年10月11日、松前郡小島村長を命ぜられ転出する。
 
第14代村長 嶺和衛(昭和9年10月11日~同14年4月8日)
 斉藤村長の後を受けて第14代村長として着任した嶺和衛は、北海道厚岸郡太田村の出身である。大正13年紋別郡興部村役場に奉職したのが行政職の振出である。嶺和衛は翌14年に普通試験(行政職試験)に合格するという努力家であった。
 昭和2年5月西興部村役場、同12月には佐呂間村役場に転じ、5年7月には天塩郡天塩町助役に当選、8年11月には早くも、茅部砂原村村長に命ぜられている。そして、昭和9年10月11日、斉藤村長の後をうけ尻岸内村村長として着任している。
 丹野、斉藤の時代は、駒ヶ岳の噴火による昆布礁の被害・不祥事件、さらには連年の凶漁凶作に見舞われるなど、村は疲弊のどん底にあったが、嶺着任以来、漁も回復傾向を見せ、山背泊船入澗第2期工事計画の策定、立ち遅れていた文教施設の整備拡充など、公共工事も順調な執行状況を見せ始めた。嶺はさらに産業の振興を図るべく懸命な努力を続ける。また、村財政の貧困を打破するため不急の支出を押さえ、納税組合組織を再編成して財入財源の確保に努めると共に、徴税の強制執行もあえて辞さなかった。
 嶺村長のこのような執行方針の下で、勧業主任岩戸純司は水産物検査員の経験を生かし近代的な水産技術の指導に力を注ぎ、獣医師柳沢良平は農産畜産の指導に当たるなど、この2人は漁・農の双璧として尻岸内村の前途に明るい希望を与えた。
 嶺和衛は昭和14年4月8日、中川郡西足寄村長を命ぜられ、村民・村職員に惜しまれながら去っていったが、戦時下の至難な時代に村発展のため残した業績は極めて大である。
 
第15代村長 上達小三郎(昭和14年4月8日~同19年4月20日)
 慕われつつ去った嶺村長の後任として着任した第15代村長上達小三郎は、滋賀県栗田郡物部村字今宿の出身である。来道し居を構えたのが河東郡士幌村である。
 大正10年4月斜里村役場に奉職を皮切りに、同13年十勝に戻り鹿追村に勤務4年後,昭和3年10月広尾郡大樹村長を命ぜられ、次いで同5年8月中川郡豊頃村長、昭和11年には河東郡士幌村長と十勝支庁各村長を歴任、その行政手腕は広く知られた。
 上達が尻岸内村長を命ぜられ着任したのは昭和14年4月8日、国内はファシズム台頭により軍国主義が国全体を覆い、国民すべてが戦時体制に突き進もうとしていた時期である。
 折しも、日本軍は大陸に戦線を拡大し張鼓峰事件(中国とソ連国境の張鼓峰で日本軍とソ連軍が衝突した事件・ノモンハン事件にエスカレートする)、広東占領、海南島上陸など戦火のニュースが伝えられ、いい知れぬ緊張感の中、義勇報国の観念が次第に浸透しつつあった。このような国内外の情勢の中で、尻岸内村も当然ながら自治の灯はかきけされ、国民総動員の中で、産業・教育・生活一般も戦時体制の中に組み込まれ、村民は犠牲を強いられていた。村も緊急財政を強いられ、行政事務にも諸般の施設にも手が届きかねる状態となっていた。そんな中でも、上達村長は年来の悲願でもある大澗船入澗築設の実現に、戸井鉄道路線の延長に、災害復旧工事にと、要路に陳情を重ねるなど懸命の努力を続けたが昭和19年4月20日、健康すぐれずの理由で職を辞し去っていった。
 
第16代村長 井上 悟(昭和19年4月20日~同21年3月18日)
 16代村長についた井上悟は沙流郡平取村の出身で、大正5年7月根室実業学校予科に学んでいたが、学業半ばにして根室木材株式会社に入社、同7年には国後木材株式会社に移り、工場事務主任を勤めること3年余り、同10年11月職を辞して根室支庁村外3ケ村戸長役場に奉職、財務・統計・税務・土木の事務を担当する。大正12年には留夜別村に転じ、この年7月より収入役を1期勤める。後、昭和6年には小清水村役場、同7年には平取村役場を歴任し、昭和13年12月砂原村長を命ぜられ、18年4月からは食料営団砂原村出張所長を兼務する。昭和19年4月20日、尻岸内村長を命ぜられ着任、上達前村長より村政を引継ぐが、この頃すでに、物量を誇るアメリカ軍の猛烈な反撃作戦により日本軍は玉砕や敗走が相次ぎ、本土では「本土決戦一億玉砕」などのスローガンが掲げられ戦況は末期状況を呈していた。郷土では、食料難は益々深刻化し、配給も遅配欠配が相次ぎ、役場吏員の執務は村民の食糧確保のため農村地帯へ派遣され、食料供出のお願いに狂奔しなければならなかった。
 昭和20年8月15日、日本の無条件降伏により終戦となり、長く苦しい戦争から解放されたが、国民はただ飢えを凌ぐため食料を漁り、農村へ農村へと、買い出しの行列を作る日々が仕事の大半を占めた。政府・道庁の機能は弱体化し行政指導もままならず村役場の執行能力は失われ、混迷と苦難の年が明けた昭和21年3月18日、当然ながら村政上のなんら実績のないまま、井上村長は健康上の理由で職を辞し離村する。
 
第17代村長 三瓶万吉(昭和21年3月18日~同22年4月7日)
 昭和21年3月18日、井上悟村長の後任として、終戦の混乱期、行政機能がまひ状態の尻岸内村17代村長として就任したのが三瓶万吉である。
 三瓶は渡島水産会参事として、漁村運動のために活躍しその名は広く漁民に親しまれた人物であったが、食糧事情の混乱する最中、頼みの漁業もままならなず、村政を預かる者として苦難の連続であつた。三瓶の実績や経歴から、このような時代でなければ存分に行政手腕が発揮されたであろうと、惜しまれてならない。
 三瓶村長の在職は1年余り、村実態の掌握、報告事項が精一杯の状態の中、新憲法が発布・地方自治法の制定により官選村長に終止符が打たれ、公選初代村長に郷土出身の前田時太郎が就任すると共に退任となる。