[鉱業のあゆみ−砂鉄]

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 通称ヲツケ、天狗山の裾(すそ)、国道278号の坂道を高岱へ下ってくると、前方右手に日ノ浜の真っ黒な砂浜が弧を描き白波が寄せては返す。そして、その先に静かに白煙を噴く活火山恵山が男性的な山容を映す。観光地恵山町の美しい景観のひとコマでもある。
 この『真っ黒な砂浜』こそ、幕末の日本史に、私たちの町の産業・鉱業の歴史に大きな足跡を残すもととなった『砂鉄の鉱脈』なのである。
 この節では、幕末、開国を迎えた激動の時代、北辺警備の強化から構築した「五稜郭・弁天岬砲台」に、大砲の設置を目的として築造された『古武井熔鉱炉』についてと、戦後の基幹産業が著しく復興した時期、国内の鉄資源を求めた鉄鋼大手が『日ノ浜、中浜一帯の砂鉄鉱脈』を採掘したことを中心に記述する。
 
 尻岸内の砂鉄
 資源としての砂鉄の歴史は古い。砂鉄は鉄器時代に入り、武器や農・工具をつくる上で最も入手しやすい鉄の原料であったろう。また、地金を造るために、古来『タタラ吹き』(砂鉄吹立)という方法・技術が考案された。そして、これを原料に、世界で最も優れた刃物と言われる日本刀や、数多くの鉄製品・文化を生み出してきた。その技術は現在にも受け継がれている。
 わが町にも、地元の砂鉄を原料に造られた日本刀が文化財に指定され現存する。
 
尻岸内の砂鉄を用い作った刀
・源正雄銘の刀
・源正雄 幕末最高の刀匠源清麿の高弟
・安政5年~万延元年(1858~1860)堀利煕(ほりとしひろ)箱館奉行の招きで箱館に3か年住み、作刀したと伝えられている。
尻岸内の砂鉄を用いた刀は『箱館打ち』と呼ばれ安政5・6年に製作したもの、『箱館沙鉄造之』の銘が入っている。
・昭和45年2月(1970)北海道有形文化財に指定
・函館市・恵山町所有
 
 記録によれば、最初にこの砂鉄に目を付けたのは羽太正養(はぶとまさやす)である。
 1799年(寛政11)から1807年(文化4)蝦夷地取締御用掛、蝦夷奉行箱館奉行の任についた羽太正養(はぶとまさやす)は公務日記「休明光記」に「箱館近郷戸井の辺り(尻岸内)、蝦夷地勇払などに砂鉄があり、これを吹立てるならば蝦夷地はもちろん、箱館の需要にも応じるほどの鉄地金を生産することができるであろう。箱館町人の中には、この砂鉄吹立を願出ている者もあるのでこれを許可し是非着業させたい」と書いている。そして、実際に「タタラ吹き」を着業した人がいた。
 1854年(安政元)か1855年(安政2)頃か(箱館奉行村垣範正の公務日記、安政4年3月21日にその存在が記録されている)箱館大町の職人(山カセ印)松右衛門という者が尻岸内川の支流、冷水川を2キロメートルほどさかのぼった右岸に「タタラ炉」を設置し鉄の吹き立てを行っている。