④尻岸内仮熔鉱炉について

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                         阿部 たつを
 道南の歴史(道南の歴史研究協議会機関紙)
            (昭和46年)1971・10・20 No.52
 
 「尻岸内町史」(昭和45年9月刊)は浜田昌幸氏の力作であり、道内地方史に新生面を開いたものといってよい。私は購入以来精読中であるが、途中雑用に追われて、まだ、300頁ほど読み残している。それで全体にわたる読後感は後日に譲って、ここでは仮熔鉱炉ひとつだけを取りあげる。仮熔鉱炉は武田斐三郎が造った煉瓦焼場及び熔鉱炉と共に尻岸内の目玉史跡であって、これが正しく伝えられると否とは、及ぼすところが大きいからである。
 「尻岸内町史」では「尻岸内川支流の冷水川上流に、安政2年頃、箱館弁天町山カセ印、松右衛門が、砂鉄吹立を始めた」ことを述べ「以下尻岸内町史…さて松右衛門の砂鉄吹立によって銑鉄を造ることの可能性は容易に確認された。しかし、それは古来から行われて来たタタラ吹きで、初歩的の段階のものに過ぎなかった。大砲鋳造のためにはいわゆる柔鉄(糯鉄(だてつ))が必要である。反射炉を造っても柔鉄(糯鉄(だてつ))がなければどうにもならない。柔鉄があってこそ初めて反射炉の存在価値があるのだ。しかしながら柔鉄を生産するためには、一通りのタタラ吹法ぐらいではできない。どうしても洋式高炉でなければ成功しないのだ。こうした製鉄技術上の理論に起こって武田斐三郎は洋式高炉に関する研究を蘭書によって読んできた。かくて安政3年の頃、斐三郎がその知識によって試験的な段階として、いわゆる仮熔鉱炉の取建てを指導し、松右衛門に経営させたもののようである。安政4年3月、箱館奉行村垣淡路守巡視の際に随行した普請役梶山米太郎らの報告には、この仮熔鉱炉を『コウキヤウヘンと号し即ち熔鉱炉略形有之』といい、『弐間四方余程に築立』したもので『火勢の模様強烈盛に相見、実に破裂等の義も有之間敷とも難申』とも思われるほどで、凄まじい勢いで熔鉱炉内の火が燃えてあったと記し、仮熔鉱炉の規模の大略を伝えている…以上」と記載されている。即ち(尻岸内町史では)仮熔鉱炉は松右衛門のタタラ吹きを改めて斐三郎指導の下に作られた洋式高炉であるとして居られるのである。
 そして最近届いたHTBまめほん第8冊、武内収太氏の「武田斐三郎」(昭和46年7月刊)には、この年(安政3年)また冷水川上流に、3.6平方メートル(3.62平方メートルの誤記ではないか)に6メートルの築立のある仮熔鉱炉の建設に着手した。翌安政4年3月に完成して火入れを行っている。火勢が強く上がって一応の成功を収めた。この仮熔鉱炉は日本洋式砂鉄技術史上最初のものである」と記されている。同書の中では古武井の熔鉱炉のところで浜田昌幸氏の名を挙げられておられるから、武内氏が「尻岸内町史」を読まれた事は確かだと思われる。浜田氏の記載を継承されたか、或いは別の文献によられたかは分からないが、武内氏も又、冷水川上流の仮熔鉱炉を洋式高炉であるとして居られるのである。
 冷水川上流のいわゆる仮熔鉱炉については、私の知る限り、これは三種の見解があった。即ち最初私がタタラ説を主張し、その後高木幸雄氏が洋式高炉説を述べ、最後に白山友正氏タタラ炉から洋式高炉への改造説を立てられたのである。何れもその炉の跡の現地を親しくは見ては居るが、主として文献による考察である。(高木氏は現地で採集した鉱滓を富士製鉄室蘭研究所に送って分析してもらった成績を挙げて、仮熔鉱炉で熔銑されたことが分かるとして居られる)そして、三者互いに、これまでその説を譲らなかったのである。
 浜田氏は(尻岸内町史で)白山氏の説に従われたのである。
 ところが、新潟大学教授大橋周治氏は昭和43年7月下旬、親しく現地を調査されて、雑誌「金属」同年9月号に「幕末蝦夷地の洋式製鉄」と題してこの問題を解明せられたのである。大橋氏は「わたしは冷水川の炉が当時仮熔鉱炉と呼ばれていたとしても、それが洋式高炉であったとすることに疑問を呈するものである」として次の如く述べられておられる。
(1)尻岸内町の浜田昌幸氏に案内されて確認した仮高炉跡は、きわめて狭い谷間の斜面にあった。現在密生している針葉樹の巨木は、この100年の間に育ったとしても、また、2間四方の炉はその場所に建設しえたとしても、洋式高炉の立地条件としては、非常に不適当な場所である。
(2)洋式高炉ならば水車による送風を必要とするが、水車場を設ける場所を欠き、また、用水導入の溝跡も、その形跡も全く認めなかった。さらに冷水川の水量も余りにも貧弱であった。
(3)数塊のスラグはすぐ谷川で採取できたが、それは一見して、タタラ吹きの鉱滓であるとわかるものであった。
(4)炉跡を掘ると数塊の煉瓦片がすぐ出てきたが、いずれも粗悪な赤煉瓦で、古武井高炉で認めたほどの高炉内壁用の珪石煉瓦は出てこなかった。従来もそれほど採取されていないのではないか。また、高さ2丈(6メートル)もの高炉煉瓦積みであったならば、もっと大量の煉瓦くずが散乱しているはずではないか。
 つぎに高木氏が揚げられた鉱滓分析値について「これは石灰を溶剤とする高炉操業からでたスラグでなくて、まさにタタラ吹きによる砂鉄精錬によって生じたスラグなのである」と述べ、「だが文献上で『仮熔鉱炉』と称し、炉の規模が『二間四方、高さ二丈』とするのは高炉ではないか」と自問して「なぜ仮熔鉱炉と呼ばれたのかわからないが、冶金技術の知識を持たぬ役人や視察者が、工場設備に勝手に名をつけることは今日でも日常茶飯事のことで、この呼び名だけから洋式高炉とは結論できない。勘定方の役人による炉寸法の測定もあてにならない。炉寸法については明治6年この仮熔鉱炉跡を視察した米人技師ライマンのつぎの視察報告のほうが正確なのではないか」として、「来曼氏地質測定初期報文概要」を引いて「これはまさにタタラ炉の描写である。この炉が松右衛門なるものの出資、経営であることもそれがタタラ炉であることの根拠になる。松右衛門の出身地は分からないが、箱館には南部藩出身の者が当時から多く来住しており、南部では江戸中期以来、商人出資による砂鉄精錬、藩による銑鉄買い上げが制度化してその経験者が多かった」と述べて居られる。
 即ち結果から言えば大橋博士の調査は冷水川上流にあった仮熔鉱炉をタタラ吹きであったとされたもので、偶然ながら私の年来の主張と一致したことになる。私はゆめゆめひとのふんどしで角力をとる気はないのであるが、鉱滓をを見ただけで洋式高炉のものかタタラ吹きのものかを鑑別され、鉱滓の分析数値から、洋式高炉によるものでなくて、タタラ吹きによるものであることを断定される鑑識者が、専門の雑誌に発表された記事であるから信用していいものだと思われるのである。大橋氏の文中にもあるように、現地には浜田氏の案内を受けたそうであるから、浜田氏は大橋氏の意見も聞かれ、発表誌も送られたことと思われるのであるが、「尻岸内町史」の該当記事に「仮熔鉱炉を、タタラ吹きから洋式高炉に改造したもの」としておられるのは、大橋氏の説を黙殺されたのであろうか、或いは、大橋氏の見解を知らされた時は既に「尻岸内町史」の原稿を印刷所に迴された後だったのであろうか。
 なお、ついでだから、尻岸内の熔鉱炉のことにも言及しておくが、「尻岸内町史」には、「古武井での鋳砲と古武井熔鉱炉をめぐる謎」と題する横組1頁の記事があって、私の著書から「武田斐三郎の作ったものは熔鉱炉であって反射炉ではなかった。その熔鉱炉も第1回の作業で失敗してついに廃絶した」という所論を引用した上で、初代英国領事ホヂソンの著書に「多数の男女並びに子供達が砂を洗いふるいわけていた。そしてそのうえ、ちょっと先の方で大きな大砲や他の武器が鋳造されていた」とあることを挙げて、『ホヂソン領事が鋳造の事実を発見している以上、私共はもう一度新たな規点(ママ)が調査研究を進める必要があろう。いずれにせよ「古武井熔鉱炉」自体の構造も判然せず、しかも軍事上の機密として厳密に附されていたらしいことなどからも、廃棄後重要な部分の施設を取り毀し、或いは撤収したものとすれば猶更のこと、その辺のところになぞは秘められていよう」と述べて居られる。
 武内収太氏も亦「武田斐三郎」に於いて、この浜田氏の説を忠実に踏襲して「一部の郷土史家の見解は、古武井熔鉱炉の製鉄は不成功に終わったと断定している。(中略)これに対して尻岸内郷土史研究会の中心である浜田昌幸氏は『もう一度新たな角度から研究調査を行う必要がある』と提言している。不成功の記録と同様に成功を目撃した記録もあるからである」としてホヂソンの記述をあげておられる。
 ホヂソン古武井熔鉱炉に関する記載を私が知ったのは、越崎宗一氏が雑誌「海峡」昭和44年9月号に「古武井の鉄工場」−ホヂソン領事の記録より−として発表されたものによってである。浜田氏も恐らく同様であろう。
 越崎氏「この英国領事の視察記録が信用出来るものであるとすると次のことがいえる」として、
 ①万延元年(1860)8月19日(新暦)の時点に於いて鉄工場を立証する建物があり、砂鉄を発見した道路から流れに沿って進んだところにあった。
 ②その鉄工場は稼働中であり、多勢が砂鉄を洗ったり篩にかけたりしていた。
 ③その少し先で巨砲が鋳造中であった。
 ④この2つの作業場は1か所ではなく若干の隔たりがあるような感じである。
 ⑤視察者(ホヂソン)は、大砲は海岸−例えば台場に配備されたと考えていた。
 箱館には外人も来ていたことであるし、軍の機密にも属するので表向きは失敗と言うことで隠していたが、若干は作っていたのであるまいか。何れにしても外人に対して秘密にしていたことは察せられる。と要約して居られる。
 ホヂソン古武井に行ったのは、万延元年(1860)8月19日(新暦)だと言うから、他との振り合い上大陰暦にすると、7月26日(陰暦)になる。この時点に於いて同所に砂鉄精錬用の熔鉱炉と大砲鋳造用の反射炉と2基あったのだろうか。そしてその両者が稼働しつつあったのだろうか。
 そのうち熔鉱炉については「尻岸内町史」の年表に、
 ・安政3年(1856)8月古武井川流域ムサの沢に溶鉱炉(ホーゲオーヘン)=或いは反射炉=の建設に着手
 ・安政4年(1857)11月、古武井溶鉱炉が略々完成
 ・安政5年(1858)5月、古武井溶鉱炉が完成し、火入れ
 とあるが、文献的に認められるのは、「安政3年(1856)8月、熔鉱炉着手」だけであって、その工事は冬季になると休んで、4年(1857)3月再開し、また、冬季に入ると休んで、5年(1858)3月開始されているが、いつ完成したかを物語る記録は残されていないのである。「4年11月略々完成」「5年5月完成火入れ」は、白山友正氏の仮説に従われたと思うが、それは兎に角として、ホヂソン古武井にきたのは万延元年というから安政5年から2年目である。
 私は嘗って、この熔鉱炉が作業を開始して失敗した時期について「万延元年(1860)2月箱館奉行から南部藩へ熔鉱炉職人の雇入れを申し込んだ時は、まだ作業開始前と思われるし、文久2年(1862)6月(新暦・太陰暦・5月)米国地質学者パンペリーの視察した時は既に作業実施失敗後であったから、作業開始はその間、即ち、万延元年(1860)2月以降、文久文久2年(1862)6月以前であろう」と推論しておいた。ホヂソンが来たのはその間であるから、熔鉱炉の操業が近づいたのでその準備のために、多数の男女が砂鉄を洗い篩にかけていたとしても不思議はないのである。これでも稼働中と言えば稼働中であるが、越崎氏の訳文だけの範囲では熔鉱炉で砂鉄精錬を行いつつあったとは解されない。ホヂソンを驚かせた熔鉱炉の建物があり、そこに多くの人が働いていた、砂鉄を処理していた、と言うだけのことらしい。
 ただその次の「それからちょっと先の方で大きな大砲や他の武器が鋳造されていた」と言う記事は、熔鉱炉と別に反射炉もあったようにもとれるが、これは疑問だと思う。
 第1に、熔鉱炉に関してはその建設に着手してから、操業し失敗して廃絶するまでの経過を知り得る文献・記事が、とびとびではあるが現存するのに、その、どの文献にも反射炉のことは一言も言及していないのである。
 第2に、熔鉱炉の存在を示す遺構は現在も残っているのに、反射炉の遺構は全くないのである。現在遺構はないばかりでなく、ホヂソンが見た万延元年(1860)7月から、僅か1年10か月後の文久2年(1861)5月、パンペリーが武田斐三郎と共に古武井に来た時の記載にも、熔鉱炉失敗のあとを見て、その構造上の欠陥を指摘しながら反射炉のことは何も書いていないのである。(熔鉱炉は翌3年(1862)6月14日の暴風雨で大破しその後廃業された。この時はまだその前である。)
 浜田氏は軍事上の機密として厳密にせられ、廃棄後重要な部分の施設を取毀わし、或いは撤収したのではないか、と言って居られるが、反射炉の頑丈な建物を全く痕跡もなく取毀すなどということが当時できたであろうか、仮にそれができたとしても、何の必要があってそんな事をしたのであろうか。あのころ、相前後して全国何か所かに造られた反射炉は、現在その遺構をとどめているものが多いのであって、計画的に痕跡なく撤収するようなことはどこでもしていないのである。
 以上の如く、並立していたと考えられる熔鉱炉に関する記録は各種あるのに、反射炉については何等の記載も認められないこと、熔鉱炉の遺構は現存するのに反射炉の遺構は全くないこと、稼働して大砲や武器を造りつつあった反射炉を取壊す必要は考えられないし、その必要があったとしても痕跡なく撤収する事は不可能だと思われること。などによって、私は反射炉が存在し、そこで大砲や武器が鋳造されていたようにとれるホヂソンの視察記録を、そのまま信用することができないのである。恵山まで散策に来て思いがけず熔鉱炉をみつけ、そこに大勢の男女が働いて居たのを見て驚いたホヂソンの疑心暗鬼ではあるまいか、と思うのである。