幕府は松前藩がとっていた漁業・商業の場所請負制(商人経営)を廃止し、直捌(幕府直営)とした。そのため蝦夷地御用掛は産物・移入品の運輸の船舶と船乗の確保を急務とした。寛政11年、まず、官船政徳丸の交付を受け続いて凌風丸を買上げ、浦賀で大船神風丸を、南部大畑で数艘の小船を造らせ、翌12年には、東蝦夷地の様似に臨時造船所を建設し数隻の大船を建造した。さらに、寛政8年(1796年)蝦夷地に渡来以降、箱館を根拠地に精力的な商活動を続ける高田屋嘉兵衛に命じて、大阪で5艘の大船を建造、享和元年(1801)箱館に廻送、造船はこの年で一段落したが、その後も箱館と野田追(八雲町)で若干艘造っている。
初代箱館奉行羽太正養の休明光記・休明光記遺稿(淡斎如水編)には当時の『官船四六艘』と記されている。これらの官船は赤く塗られていたので“赤船”と呼ばれ、日の丸を建てて航海した。