徳川三代将軍家光の時代から諸国に巡見使を派遣して、諸藩の行政を視察させて、諸藩を監督し幕府の威光を示した。家光以後、将軍が代る毎に巡見使を派遣することを例としたが、七代家継の時代だけはその派遣がなかった。後の巡見使の往復の通路と巡見範囲は、すべて三代将軍時代と同じで、新開地には行かなかった。
家光以来の巡見使
寛永十年(一六三三) 分部左京亮実実信
大河内平十郎正勝
松田善右衛門勝政
延享三年(一七四六) 山口勘兵衛
細井金五郎
新保四五右衛門
宝暦十一年(一七六一) 榊原佐兵衛
布施藤五郎
久保彦左衛門
天明八年(一七八八) 藤沢要人
川口久助
三枝十兵衛
巡見使に随行して来た文人や学者が、いろいろな紀行文や記録を残しているので、巡見使が視察したり、通過した地域の貴重な郷土史資料になっている。巡見使は戸井までは来なかったが石崎まで来ているので、下海岸の当時の状況を推定出来るような記録がある。石崎は小安の隣りなので、いろいろな影響を与えたものと思われる。
松前藩の巡視範囲は、西は福山から江差、乙部、茂内まで、東は福山から知内、木古内、亀田を経て、潮泊、石崎までであった。寛永十年、最初の巡見使が来た頃は、西部は乙部、茂内より奥、東部は潮泊、石崎より奥は馬の通る道路がなかったのであるが年月を経てこれより奥に道路がつけられても、代々の巡見使は、家光時代の通路や範囲以外の巡視はしなかったのである。宿泊する場所、昼食をとる場所等も家光時代と変らなかった。
巡見使の渡島(ととう)の日程がきまると、松前藩は巡見使の出迎え、接待、案内等の準備に大騒ぎをし、巡視或は通過区域の村々に布令を出した。その布令には
「巡見使一行に無礼のないよう、不快の念を抱かせないよう十分注意すること」
「巡見使はこういうことを質問するだろうから、それにはこのように答えること」などと、細かな具体的なことまでも指示している。
巡見区域の領民たちは、藩の布令の指示によって、道路を補修したり拡げたりし道路縁の草を刈ったりして、村中を清掃し、各家では念入りな大掃除をし家の前側を修理したり、障子なども張り替える。人々はトッテオキのいい着物を着て、大いに緊張して巡見使を待ったのである。一行の人数が多いものだから、一行の宿泊地や休憩所に当てられた村の近隣の村々の旅館や休み茶屋などは、十日も前から一般の旅人の休憩や宿泊が禁じられた。
村々の役人は、巡見使に対する口上(こうじょう)の練習をしたり質問事項に対する答え方を練習し、村内を廻って歩いて村々に細かい指示をした。東部の石崎村や、西部の乙部村の役人は、巡見使に謁見(えっけん)するアイヌの代表をきめ、アイヌの演芸の代表をきめて、一ヶ月も前から練習させ幾度も予行練習をして巡見使に謁見させる準備をした。
巡見使一行の人数であるが、巡見使はたった三人だが、一人の巡見使に二十五、六人から四十四、五人もついて来るので百人内外であった。これに対して松前藩からは、案内役、接待役、運搬役、その外に熊の害に備える鉄砲隊などの藩士、人夫などをつけ、その人数は千人を越えたのである。
千人以上の人間が、盛装をこらして行列を組んで巡視する壮観さ、その騒ぎは大へんなものであった。民百姓は何日も何日も仕事を休んで、準備に忙殺され巡見使の通過する日は、道路に盛り砂をし、千人もの行列が通り過ぎるまで、家々の前に土下座(どげざ)して迎えたのである。
領民の迷惑は大へんなものであったろうし、松前藩や領内の村々で巡見使を迎えるために要した費用は莫大なものであったろう。北海道だけではなく本州各地でも巡見使を迎える苦労は同じであった。
次に寛永十年、三代家光の時に始った最初の巡見使と、天明八年(一八八八)十一代家斉の時の巡見使の蝦夷地巡視について抜き書きして見たい。
寛永十年の巡見使
最初の巡見使は、家光が秀忠の後をついで、三代将軍になってから十年目の寛永十年(一六三三)に派遣された。
巡見使は代々普通使番、書院番、小姓組番の三番士が当てられた。最初の巡見使で松前藩に派遣された番士は前にも述べた通り、分部実信、大河内正勝、松田勝政であった
松前藩の巡視には、寛永十年七月九日福山(今の松前)に到着、西部は福山から乙部、茂内まで、東部は潮泊、石崎までを十七日間で終わり、七月二十六日、福山から津軽の小泊に向けて出帆した。
この後は、将軍の代変り毎に巡見使が巡遣されたが、すべて寛永十年の例を踏襲(とうしゅう)したのである。天明八年の巡見使は、この時から二五五年後で、道路なども相当開かれていたが巡見区域、宿泊地、休憩場所等すべて寛永十年の時と同じであった。このこと一つから考えても封建時代の形式主義、保守主義をうかがい知ることができる。
天明八年の巡見使
天明六年(一七八六)十代将軍家治が歿し、天明七年家斉が十一代将軍になった。そして、翌天明八年(一八八八)に巡見使を派遣した。八度目の巡見使であり、第一回目から二五五年後である。
この時の巡見使は藤沢要人、川口久助、三枝十兵衛の三人であった。この時の随行者の一人に古川古松軒という地理学者が加わっており、『東遊雑記』や『蝦夷松前諸説』に、巡見使一行の状況、村々の状態、途中でのでき事などをくわしく記録している。
巡見使が江戸を出発したのが天明八年五月六日、三厩に着いたのが七月十八日、三厩から松前に向けて船出したのは七月二十日であった。
菅江真澄は巡見使一行より、一週間前の七月十三日に、上宇鉄(かみうてつ)から乗船して翌朝福山に着いているが、巡見使を迎える前の三厩附近の状況を次のように書いている。
「私が松前に渡ろうとして三厩に着いたのは七月十一日であるが、近く到着する巡見使を迎える準備に忙がしく、到着までまだ一週間もあるのに旅館は満員で、私の泊る宿はなかった」と書き、更に
「三人の巡見使のものだといって、三艘の船を立派に儀装して磯近くにつなぎ脚艇なども美しく飾られていた。宿という宿は、すす掃きをして清め準備はなみなみではなかった。『巡見使はいついつの日に武蔵(むさし)をたって、いついつの日にここへ来られるのだ』といって、人々がたくさん宿々に入り込んで『ちょっと休ませて下さい』といって休むような宿もないので、宇鉄(うてつ)の浦に行こうと三厩を去った」と書いている。
真澄の短かい文を読んで見ても渡海地点三厩の騒ぎや津軽藩の巡見使一行に対する心遣いなどが想像される。
巡見使一行の渡海の様子を、古松軒は次のように書いている。
「(前略)このような難海なので、水主(かこ)が二人、船の頭に坐して汐行きを見ながら『トリカジ、オモカジ』とヒマなく楫取(かじとり)に指図している。楫(かじ)の柄(え)には太い綱をつけて、左右四人で水主(かこ)の指図通りに真剣に綱を引いている。
こうして竜飛の汐先に船が乗り入れると、舳(へ)先にいる水主(かこ)が『只今竜飛の汐にかかり申す』と大声で船頭に知ららせる。汐行(しおゆき)と楫(かじ)と調子が揃って船行がよいと、舳先(へさき)の水主(かこ)が『そろった!』と叫んで、扇をあげて喜び『南無船玉明神、たのむぞ、たのむぞ』という。
このころは、船中の人々はみな浪音(なみおと)の高いのと、船行(ふなゆき)の強いのに胆(きも)を冷し、起きている者は一人もいない。御巡見使のことなので、津軽侯からも船を三十艘余りも出し、その船はみな幔幕(まんまく)を引き廻し鳥毛の鑓(やり)数本、船印の纒(まとい)を立て、引船がたくさんでその船を曳き、船人が船歌をうたいながら竜飛の鼻まではどの船も揃って漕ぎ出すのだが、竜飛の汐にかかるとみな離ればなれになり、大そう危うく見える」と書き、船が福山の港に到着した時の様子を
「巡見使の三艘の乗船は、同時に船歌に合わせて太鼓を鳴らし、合印(あいじるし)の旗をかかげた数隻の小舟に曳(ひ)かれ、櫓(ろ)拍子を高く響(ひび)かせて漕ぎ寄せる。陸岸には藩士が整列して巡見使を出迎える。城下における巡見使の宿舎には家老の屋敷を提供する。
上ノ国の、天の川(・・・)の一部には臨時の仮橋をかけ、知内山道の一ノ渡(・・・)に休憩所を設ける。
巡見に当っては、家老その他の重臣をはじめ料理人、給仕人、案内人、人足(にんそく)などを含めて約千四百人、馬二百匹を附添わせる。巡見使が城下に滞在中に、藩主自ら一度、正使の宿舎を訪問した」と書き、福山から東方の村々の状況を
「知内は漁家が十二、三軒、知内から戸切地(へきれち)までの間には、十軒から二十軒くらいの部落が数ケ所あったがそれはみな漁家のようで、魚油をしぼっている所もあった。金もうけが自由な為か裕福なようで人物、衣服、家居は見苦しくない。
戸切地は相当の町であるが、有川という村は名ばかりで人家はなく、亀田も相当の町である。有川の浜から箱館を望むと、商船がたくさん入津しており、白壁の並んでいる町が見えた。聞くところによれば、市中は家が千軒余りもあるという。
福山から東の産物は、みな箱館から積み出す。諸国の商船がたくさん入港して交易するので、売女などもたくさんいて大いに繁昌している。
城下と江差と箱館を三港といっている。湯の川には湯治客が多い。汐首の崎から東は蝦夷地である」と書き、東部黒岩、西部乙部で、アイヌの代表が巡見使に謁見して時の状況について
「御巡見使が御下向の時は、古例があって東は黒岩、西では乙部で、蝦夷人が来て御目見することになっている。
この度乙部では、男八人、女六人、黒岩では、男十二人、女五人が御目見した。東西の蝦夷を比べて見ると風俗や言語は大てい同じであるが、およそ百里も隔っている所なので少し違うこともあった。
黒岩で御目見した蝦夷は、丈も高く大丈夫に見た、婦人も乙部の者より大きく見えた。男は丈の低い者でも五尺七、八寸高い者はみな六尺以上で、口髭を左右にはやし、色は赤黒く、眼光するどく、絵にかいたハンカイ(・・・・)、張飛のようで、恐ろしく見えた。然し紅毛人などとは違い日本人の大丈夫に髭をはやさせたようなもので、異体の者には見えない。
蝦夷が御巡見使の前に出る時は、男は男ばかり、女は女ばかりで、手に手を取り組み、腰を大そうかがめ横へ横へと静かに歩み出て、男はむしろの上に箕坐し、女は砂の上に横すわりに坐す。
いい渡すのだが、その音声や調子が非常に高く、その上早口にいうので、何となくおかしくなり笑わない者は一人もいない。
通辞から巡見使に、蝦夷辞の書付を差上げる。それから夷人の芸術をさせて、御目にかけるのである。芸術というのは射棒、打綱越、角力(すもう)、女夷は鶴の舞をいう。日本の芸とは大そう趣を異にしていて面白いものである。」と書き、次に酒を飲む作法、装身具、衣服、武器、ブスの毒、漁舟などについて述べている。
巡見使の通過する道筋に熊が出没し、上磯で一行の馬が二頭熊にとられた騒ぎを書いている。
「御巡見使が松前領内を御通行の時は、松前侯から熊の用心に、鉄砲打ちを一組、一組につけることになっている。この度、御巡見使御三所が、戸切地(へきれち)という所へ御止宿され、松前侯から御馳走の為につき従う諸役人、人足、伝馬(二百匹余り)がここへ宿泊することになった。
この村は家が三百軒もある賑(にぎ)やかな町であり、その上千四百人余りの巡見使一行が宿泊して大賑(おおにぎ)わいの町中に、鬼熊が二頭、馬の多いのを見て、馬をとろうと厩に走って来た。その時は夜であたりが暗いので、上を下への大騒ぎになった。
ときの声をあげ、鉄砲をうち、明松(たいまつ)を振りたて、馬をとられまいと各々真剣に働らいたが、遂に二匹もとられてしまった。熊が馬をとる時の様子を聞いて見ると、馬の頭と尻をつかみ、中から折って、それを背中にかついで逃げ去るのが、矢のようであったという。蝦夷地の熊は、人でも馬でも骨も残さず食いつくすので、土地の人は鬼熊と呼んでいる。
翌日は福島という所に御止宿した。人々は前夜のことに怖れ日の暮れないうちにと、道を急ぎ七つ半頃に福島へ着いた。ところが、鬼熊は一行の先まわりをし嶮山の峰々に立って、待っている様子であった。各々驚いて、熊に向って鉄砲数丁を打ちかけ一層警戒を厳重にしたので福島では何事もなかった。
鉄砲打ち一人だけでは、熊に勝てるものではない。熊は鉄砲の当り所によっては、少しもひるまず鉄砲の傷口から血の流れることを嫌い、ヨモギの葉をとって、それを傷口に押し入れて飛びかかるので、たやすく熊をとることはできない。
然し、蝦夷人が鬼熊をとることは、平常の仕事の一つなので、何の苦もなくとっている。蝦夷は鬼熊をとるのにブス矢を使う。これが当たり、少しでも皮を切ればさすがの鬼熊も、ブスの毒がたちまち全身にまわり、三間と走ることができずに、そのまま倒れ伏すという。
熊が死ぬと、ブスの毒がみな傷口に黒く集るので、そこを小刀でえぐりとって捨てると肉は食えるという。鬼熊も蝦夷人を見ると怖れて逃げてしまうが、日本風俗の人を見ると飛びかかるという。
蝦夷は幼ない時から半弓、鉾(ほこ)を使うことを仕事としているので百発百中の名人である。岩山の上、深山幽谷の中でもハダシで走り、歩むことは鳥のように早く日本人とは非常に異なっている。世俗に『蝦夷の柴(しば)がくれ』といって、鬼熊などに出合うと、一葉のかげにでもかくれるということは虚説である。飛び走る早業を見て、松前の人がいい出した謬説である。蝦夷人といってもこのような怪しいことはなく、ただ大丈夫だというだけである。」と述べている。