[菅江真澄の戸井紀行(寛政元・三年)]

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 今から百八十年も昔に、菅江真澄くらい戸井のことをくわしく書いた人はいない。戸井の文化財「板碑」発見の契機(けいき)の一つが真澄の紀行文であったのである。

菅江真澄の肖像

 菅江真澄は寛政元年(一七八九)七月、福山を出発し、下海岸を通って恵山まで往復し、見るもの聞くものをくわしく『ひろめかり』という紀行文に書いた。
 往路は舟で、運上屋のある小安、戸井、尻岸内に上陸して、舟を乗り継(つ)ぎながら恵山まで行き、復路は徒歩で、海岸沿いにつけられている細道を辿(たど)り、日浦、原木などを越えて陸行したのである。
 この時の紀行を『ひろめかり上、下巻』にまとめたのであるが、根田内(恵山)を出発してから、戸井の運上屋までのことを書いた部分が散逸(さんえつ)して残っていない。散逸した部分に「ムイの島の伝説」を書いたことは、寛政三年に書いた『えぞのてぶり』に書かれているが、その部分がないのである。
 前半の紀行文がなく「十七日(・・・)、上風(かみかぜ)というが吹きて、空も晴れたれば、この運上屋(・・・・・)をいでたつ」という文章から始まっている。
 下海岸の事情にうとい(・・・)、真澄研究者や学者は「十七日を十月十七日」としたり「この運上屋を某地の運上屋」としたり、甚だしい者は「尻岸内運上屋」と解釈したりしている。「十七日を十月十七日」としたのは、真澄研究では第一人者である秋田の内田武志氏であり、多くの学者はそれに不審を抱かなかったようである。「この運上屋」を内田武志等が「某地の運上屋」と訳し、松本隆は『松前郡史』で「尻岸内?の運上屋」と書いているのを諸学者はそのまま踏襲(とうしゅう)している。
 下海岸の事情や地理に精通(せいつう)していれば、旧暦十月は昆布をとったり、鰤を釣ったりする季節でないことがすぐわかる。真澄の日記、紀行文の月日はすべて旧歴であることを忘れてはならない。十七日は七月十七日である。
 又「この運上屋」は、文章を読んで行くと「尻岸内」ではなくて「戸井の運上屋」である。
 「十七日は旧暦十月、運上屋は戸井」でなければ、前半の缺(か)けている『ひろめかり』は正しく読みとれない。
 内田武志が『松前と菅江真澄』(昭和二十五年刊)に『ひろめかり』の継缺(だんけつ)文を発見したと書いている。
 (この文章は「戸井と近隣の変遷」の項に書いた)
この断片記録が、「十七日、上風というが吹きて、空も晴れたれば、この運上屋をいでたつ」の前につく文章であることは明瞭である。
 これによって推定すれば「十二日に根田内を出発し、尻岸内運上屋で休憩し、日浦、原木の峠を越え、鎌歌の丘(今の鎌歌小学校のあるところ)を越えて、戸井の運上屋り、風雨が激しくて(恐らくヤマセの風であろう)十三日、十四日、十五日、十六日と出発できずに十二日から五日間、武井の島を眺めながら、戸井の運上屋に滞在し、十七日は上風(かみかぜ)(西風)が吹いて、天候が回復したので、戸井の運上屋を出発したのである。戸井の運上屋に五もしたのだから、武井の島や岡部館の伝説もくわしく書いたものと思われるが、その記録も全然ないのである。(館の伝説は、古銭の出土した文政四年より三十三年も以前なので、村人の間にこの話がなかったかも知れないが。)
 十七日、戸井の運上屋を出発して間もなく観音堂のほとりで石碑を見、岡部澗のあたりでアイヌがメノコと二人でカガメ(今ガゴメ~とろろ昆布)を刈っているのを見、館鼻の岬の岩の上でアイヌがオソボロスケ(鰤)(ぶり)を釣っている光景を書いている。
 前に述べたが、旧暦十月は昆布取りの時期ではない。又ブリの釣れる時期でもない。真澄はわざわざ下海岸の昆布取りを見に来たのだから、旧暦十月に来る筈はない。ブリは夏から初秋の頃に釣れる魚で、昆布取りの時期に釣れる魚である。旧暦十月十七日は冬で、雪の遅い下海岸でも雪の降る季節である。
 なぜ「十月」と誤ったかということを推定して見ると、真澄は「七月十七日」に戸井の運上屋を出発して、銭亀沢の名主蛯子太郎左衛門のところに八月頃まで滞在し、九月、十月、十一月と、箱館、亀田、有川で遊んだことが推定される。そして十一月十四日、箱館から福山に向って出発している。
 十一月十四日以降の紀行文は残っているが、銭亀沢に着いてから福山へ向けて出発するまでの満四ヶ月の日記や紀行文は全然残っていないのである。
 内田武志等は「銭亀沢の蛯子の所へ着いた」という部分と「十一月十四日箱館を出発した」という部分を不用意に続けて「十七日、この運上屋をいでたつ」という部分を「十月」と解釈したのである。
 『ひろめかり』の戸井から石崎に一して、ここを出発した後の紀行文を意訳して見ると
 
 「十九日(七月)潮川に潮波がはいって来て、深くて渡るのに困難だし、山路は熊の恐れあるというので、馬で出発した。右手(めて)に遠石倉といって岩の群(む)れ立っている所に稲荷(いなり)の神の祠(ほこら)がある。
 『ここに黒狐がすんであり、時々それを見たことがある』などと、馬引きの男がいろいろ物語りするのを馬の上で聞きながら銭亀沢に来て、蛯子太郎左衛門の家に着き、ここで月を経(・・・)、それから亀田、有川、箱館に遊んで月日を送った(・・・・・・)。
 この旅で見たことのあらまし(・・・・)や、昆布漁をする道具などを拙ない文章で左に記したのである。これを見る人々は笑うであろう。」
 
 これで『ひろめかり』の上巻は終り、下巻は十一月十四日福山に向って出発したところから書き始め、十一月十七日、知内の湯の岱の小屋にって、老翁から熊の話を聞いてそれを記録し、翌日福山に帰ったところで、『ひろめかり紀行』が終っている。そして巻末に寛政元年冬十一月二十日と書かれている。
 菅原真澄は寛政元年下海岸の昆布取の様子を調べるために、恵山まで来た帰り、七月十二日から十六日まで、岡部澗の近くにあった戸井の運上屋に滞在したのである。
 真澄はこの時から二年後の寛政三年(一七九一)五月下句、有珠岳(うすだけ)登山を志して、往路は舟で下海岸を通り、五月二十六日小安で下船して、小安運上屋に一し、二十七日早朝、舟で戸井まで来て岡部澗から上陸して、戸井の運上屋で休憩して、ここから蝦夷舟に乗り換えて、尻岸内運上屋(現在の大澗)で舟を乗り換え、恵山を越えて椴法華に下(くだ)り、ここから又舟で岬を廻って蔭海岸(かげかいがん)へ行き、りを重ねて有珠(うす)まで行ったのである。
 真澄は寛政元年七月往路は舟、復路は徒歩で二度下海岸を通り、寛政三年五月は有珠までの往路を舟で、小安運上屋に一、戸井の運上屋に休憩している。
 前後三度戸井を通っているが、寛政元年七月十二日から五日間も戸井の運上屋に滞在した時の日記や紀行文が散逸していることは残念なことである。