天正十八年(一五八三)蠣崎慶広が、豊臣秀吉から蝦夷地の領有管轄権を認められた時から、寛政十年(一七九八)徳川幕府の直領に移されるまでの二〇九年間を松前時代の前期とした。
慶広が藩主になった頃も、蝦夷は全島各地に居住してその勢力が強く、和人と蝦夷との反目(はんもく)、軋轢(あつれき)が絶えず、相互の紛争が跡を絶たなかった。藩主慶広は蝦夷との紛争を緩和し、軋轢を回避するために、東は汐首岬、西は熊石を境界として和人地と蝦夷地に区分した。
中央政権の支配下になった松前藩は、幕府の要求によって藩内の状況を報告するため、或は自藩統治の必要上、村々の役人に命じ、或は藩士を各地に派遣して、和人地はもちろん蝦夷地についても屢々調査記録するようになった。
この時代の寛永初年頃から、小安、釜石(ウカ川附近)、汐首(汐首岬の東部)の和人地に和人が定住し始め、従来からその地域に住んでいた蝦夷と雑居するようになった。
寛永十年(一六二三)徳川三代将軍家光が、最初の巡見使を石崎まで派遣して以来、将軍の代替り毎に巡見使が下海岸の石崎まで来た。巡見使には必ず学者が随行し、巡見地の見聞記録を書き残した。
又この時代から幕府や松前藩の役人が屢々和人地、蝦夷地の実地踏査を行い、下海岸諸村の地勢、地形、戸数、人口、産物、故事等が調査されて公式記録として残されたのである。幕臣や藩士の公的調査の外に、当時異国扱いにされている蝦夷地に、数多くの文人、墨客、僧侶、学者、旅行家が、それぞれの目的をもって渡島し、下海岸まで足をのばし、日記や紀行文を書いたり、いろいろな事蹟を残した。この頃からが戸井の歴史時代である。
この時代の初期の享保年間(一七一六―一七三五)から、汐首岬以東と熊石以西の蝦夷地に「場所請負制度」が適用され、松前城下などの豪商を場所請負人として場所請負の権利を与え、要所々々に運上屋を設置し、運上金の取立て、漁業の指導と統制、一般行政の外、警察行政までも行わせた。租税を運上金と称し、昆布その他の産物を物納させた。税率は収穫高の一〇%(一割)乃至二〇%(二割)とし、それを一九(いちく)、或は二八(にはち)と称した。
こうして運上屋は蝦夷地を統治する役所という形になり、場所請負人やその使用人が絶大な権力をもっていたのである。場所請負人となった松前の商人は、場所には臨まず、松前城下に居住し、場所にはその使用人を支配人、番人という名で場所に常駐させ、運上金を松前に届けさせた。
地方では請負人の代行者である支配人が、場所支配についての一切の権限をもっていた。このような状態であったので、愛情のない、心の正しくない支配人や番人等は蝦夷に苛酷な運上金を課して、自らも私腹を肥やしたり、蝦夷を虐(ぎゃく)待、酷使したり、或は蝦夷の娘や有夫の女を犯したりしたため、蝦夷たちは病に倒れたり、奥地へ逃亡したりして下海岸の蝦夷の人口が漸次減少して行ったのである。
瀬田来以西の鎌歌、原木、戸井に和人が移住し始めたのは、蝦夷が減少しつつあった享保、明和の頃からで、西部の小安、釜石、汐首、瀬田来地域の和人定着から数えて約一〇〇年後である。
場所請負制度の時代は西部は小安に、東部は戸井の館鼻に運上屋が設置されていた。