この時代は寛政十一年(一七九九)から文政三年(一八二〇)までの二十二年間で、天正十八年(一五九〇)から二〇九年間、松前藩が統治した蝦夷地を幕府の直轄にした時代である。
この理由は寛政八、九年頃から外国船が蝦夷地の沿岸に出没して村々を騒がせ、更にロシヤが北方から侵略する企てがあるという風説を聞き、近藤重蔵等に東蝦夷地の実地調査を命じ、その報告に基づき、ロシヤの南侵に備えるには松前藩に任せておけないと判断し、寛政十一年に松前領の東蝦夷地を幕府の直轄とし、松前藩に命じて、ロシヤの侵略に備えるための道路を開削させた。
この時長万部、礼文華(れぶんげ)、様似、猿留、釧路、厚岸等の山道が開かれたのである。道路の開削に伴って沿道の要所々に旅人の宿泊所が設けられた。宿泊所は始めの頃は会所と称されたが、後には旧運上屋だけを会所と呼び、宿泊にのみ使用するものを通行屋又は旅宿所と称するようになった。
東蝦夷地で馬が飼育されるようになったのは寛政元年(一七八七)の蝦夷の乱を征討するため将士が、馬二十頭をもって砂原から海上を絵柄(えとも)(今の室蘭)に渡ったのが最初で、乱後その馬を留めておいて、有珠で飼育され、この馬を有珠から様似までの運搬に使用したのが、蝦夷地で馬を交通運搬に利用した始である。東蝦夷地の山道が開かれた寛政十一年に、幕府は馬六十頭を南部藩から購入し、これを各場所に配属して駅馬の用に供させた。
蝦夷地が幕府の直轄になってから、場所請負制の弊害を認めてこれを廃止し、東蝦夷地の運上屋を会所と改めたが、西蝦夷地は従来通り運上屋の名称を用いさせた。運上屋は始めの頃は粗末な建物であったが、漁場が発展し、幕吏の往来が頻繁(ひんぱん)になった文化年間の終り頃には、何れも改築或は新築されて宏壮な建物になった。
幕府が東蝦夷地を直轄統治するようになってからは、漁業及び商業を官営とし、蝦夷地御用という役をおき事業に要する資材の仕入、生産物の収納を取扱わせた。蝦夷地御用掛は官船(赤船と称した)御雇船によって蝦夷地の海運を盛んにした。
箱館を根拠地として下海岸や蔭海岸或は千島方面の漁業及び海運を盛んにした豪商高田屋嘉兵衛が、幕府の定雇船頭を命じられて活躍したのは、この時代の末期の寛政末年からである。
北辺の警備と開拓を幕府に志願して、八王寺千人同心隊の千人頭原半左衛門と弟新助が、百名の千人隊を引卒して勇払、白糠に入殖したのが寛政十二年の春である。
文化四年(一八〇七)先祖より松前家が領有していた福山附近の地をも幕府の直轄地とし、松前藩を伊達(だて)梁川に移封した。藩主を始め家臣一同の嘆きは一方でなかった。この時から文政四年(一八二一)十二月、蝦夷地を再び松前家に返還するまでの十五年間は、蝦夷地全島が幕府の直轄地になったのである。全島を幕府の直轄地にしたのは、文化三年から四年にかけて露人が樺太、ロトロフ利尻等に来冠し、南侵の形勢が露骨になったのがその契機であった。