『庭訓往来』元弘四年(一三三四)には諸国の名産が挙げられているが、その中に「宇賀昆布」と「夷鮭」が有り、現在の函館市銭亀沢から戸井町小安あたりまでで取られた昆布と蝦夷地産の鮭が、はるばる、京都、大阪へ運ばれていたことがわかる。
また室町時代中期の作といわれる『十三往来』によれば、「西滄海漫々而夷船京船群集並艫先調舳湊成市」と記され(夷船=蝦夷地より来航する船、京船=小浜、若州方面の船)十三湊(青森県北津軽郡)が当時多数の出入港船で繁栄していたことがわかる。この頃既に、蝦夷地-十三湊-若州の航路が開航されていたことを示すものであろう。
延文元年(一三五六)の『諏訪大明神絵詞』によれば、『蝦夷カ千島ト云ヘルハ我國ノ東北ニ当テ大海ノ中央ニアリ日ノモト唐子渡党此三類各三百三十三ノ嶋ニ郡居セリト、一嶋ハ渡党ニ混ス、其内二宇曾利鶴子、万堂宇満伊犬ト云小嶋トモアリ、此種類ハ多ク奥州津軽外ノ浜ニ往來交易ス」とあり「宇會利鶴子」をウソリケシ(函館の古名)と、また『万堂満伊犬』をマドウマイと読むことから延文元年(一三五六)頃既に蝦夷地のアイヌ人達が、津軽外ケ浜地方まで交易のために往来していたことが推察できる。