寛永十年(一六三三)将軍家光の命により諸大名視察のために派遣された幕府巡視使分部左京亮信・大河内平十郎正勝・松田善右衛門勝正らは七月九日に福山に到着し、その後、西は乙部、茂内(もない)(爾志郡乙部町)から東は潮泊・石崎(函館市)までの地域を巡視している。
なぜ巡見使はこれらの地域から先に行かなかったのであろうか。一つにはこれから先に馬の通行できるだけの道が無かったからであり、もう一つの理由は、これから先は巡見するだけの和人集落が存在しなかったためでもあった。
これ以外の当時の道路は大部分が海岸に沿って存在し、海の荒れた時や天候の悪い冬期間などはまったく通行できなくなるような状態であった。また上ノ国と木古内を結ぶ通称木古内越とよばれる数少ない山道が存在していたが、これも極めて難所の多い道であった。
以上記したように江戸時代初期の蝦夷地の陸路は、はなはだおそまつなものであり宿泊設備等も完備されていなかったため、蝦夷地に赴くには船を利用する方が便利であった。
その後、場所請負制の発達及び漁業の発達により和人居住者や出稼労働者が増加し、通行者や荷物輸送の機会も多くなり、充分な道路とはいえないが次第に整備されていくようになった。このような状況の中で一七五〇年ごろには、松前から東蝦夷地根室までの陸路が(一部海路)が使用できるようになっていったのであるが、次に松前から根室までの道順を示すことにする。
松前-大野-茅部峠-森-長万部(礼文華-虻田)-幌別-白老-勇拂-様似-幌泉-広尾-大津-白糠-釧路(仙凰至-厚岸)-根室
西蝦夷地は東蝦夷地に比較して陸路に難所が非常に多く、このため道路の開設も東蝦夷地よりは遅れたが、何とか松前から斜里までの道路が使用できるようになっていた。
すなわち、松前-太田-狩場-雷電-神威(松前からここまで陸路ばかりでなく所々船も使用)-雄冬(ここは最大の難所で船を使用)-増毛、増毛からは陸路によって斜里に至った。
このほかにも、蝦夷には各主要地点を結ぶ道路があったが、その主なものを記すと次のとおりである。
遊楽部-瀬多内
長万部-歌棄
勇払-石狩
石狩-上川-天塩
十勝-富良野-上川
釧路-根室-斜里