後幕領時代になり、駅逓制度は再度幕府に重要視され、中でも通信連絡は防衛・警備上特に力を入れられていたようである。
安政四年(一八五七)村垣淡路守の『公務日記』の文中、根田内(現恵山町)及び尻岸内の部分に、江戸や箱館など各地からの書状及び小荷物が届けられ、これに村垣の返信があったことなどが記されている。奉行の巡村中ということで特別であったのかもしれないが現在想像する以上に発達していたようである。
『村垣淡路守公務日記之九』
三月廿日、快晴(根田内村へ到着宿泊の部分)
一、良輔箱館江着、杉浦嘉七宅旅宿之由、森之助へ文通、且鳶定吉来ルよし、大久保幷弟太郎ゟ二月廿日日附書状来ル
三月廿一日、快静、西風(尻岸内江着泊の部分)
一、箱館ゟ、廿日出御用状到来
○織部ゟ表状壹封、
先頃石狩ゟ申遣候返事、且三月十二日出御用状之寫来ル。
○野州ゟ、二月十二日附之内状到来
正月五日之返事其外品々申来ル、
同二月廿日附壹封
正月十二日之返事其外品々申来ル、
右両度ニ注文之日野屋もの品々来ル、
○川路左衛門ゟ、二月八日内状返事来ル
○岩瀬伊賀守ゟ、二月十四日附内状壹封来ル
○整三郎明鏡殿ゟ、二月十五日壹封来ル返事
○専遊院殿ゟ、二月十九日壹封来ル、返事、
芝之御供物御守来ル
○従二郎ゟ一封
○山本新十郎ゟ一封、砂糖一箱添
○森田金吾ゟ壹封、のり一箱添
○其外所々年始状む(ママ)し書入来ル、
更に『元治二(一八六五)丑年正月諸書付』により、椴法華から箱館へ新鱈積み入れに関する書類や、椴法華三次郎手船栄徳丸破船に関する書類が飛却により送られていたことがわかる。
元治二丑 正月諸書付、沖之口御番所乍レ恐以二書付一奉二申上一候
一、龍神丸、酒井左衛門尉様御手船、
九人乗 陣屋彦次郎
右之船椴法華村おゐて新鱈積入此節手仕舞ニ相成候 態飛却ヲ以テ申参候間何卒、御役人様御改被仰付被下置度乍レ恐此段以二書付一奉二願上一候以上
丑正月八日 浜田屋兵右衛門 印
沖之口御番所様
前書之通相糺候処相違無二御座一候間奥印仕候 以上
問屋取締役見習
蛯子友輔印
元治二丑年正月諸書付、沖之口御番所
栄徳丸 椴法華
三次郎手船
三右衛門
右之船於椴法華當月十六日、東風時化ニテ皆無及破船溺死人も有レ之候所飛脚を以申来候、何度御役人様に御出役に下置度乍レ恐此段以二書付一願上奉候以上
丑七月十九日 問屋頭取宿兼
佐藤半兵衛
沖之口御番所様