徳田屋和兵衛と小板屋久兵衛

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 能登国珠洲郡飯田村の人和兵衛(天明五年生・一七八五)は、二〇歳のころ箱館へ渡海し高田屋の持船観幸丸〓一丸の水夫(かこ)となり諸国へ航海した。のち箱館の高田屋の番頭となった。和兵衛は文政四年(一八二一)、内澗町の八幡坂下に徳田屋を開業したと二代目の略伝に記している。
 文化文政の頃、元揃昆布の粗製が繰り返されたので、大坂へ向かう船頭の不信をかい、価格が暴落した。
 天保五年(一八三四)、和兵衛は川汲の漁業者小板屋久兵衛と知り合う。尾札部場所の昆布を、蝦夷地の海産物に精通した商人と主産地の漁業者とが、市場に真価を問うことになる。
 久兵衛は川汲に帰り、酒井屋竹三郎や加我屋金左衛門らと話し合い、漁業者は自覚して佳い昆布を作ることが肝要と、精選して佳い製品を出荷することに努めた。
 略伝に「天保五年(一八三四)、徳田屋が川汲昆布を初商」したとある。
 丹精した川汲昆布に〓印を付して市場に出し、買い手の船頭の信用を得た。
 良く干燥し、一枚一枚選び、結束を改良して川汲の元揃昆布箱館の徳田屋に送られる。本来、名産といわれる川汲の元揃昆布である。厳選した品物だけに信頼の回復は早く、大坂へ向かう船頭らが徳田屋の店に取引にあらわれるようになる。
 しかし、徳田屋は誰にでも売らなかった。昆布の品質を厳選したのと同じく、信頼できる買手の船頭の人柄をよく確かめて販売した。
 そして天保一一年(一八四〇)には、川汲の漁家七戸を特定して干燥と結束を吟味させ精製させた。天保の末には大坂昆布市場で〓印の昆布は元揃昆布のなかでも、破格の値がつけられて売買されるようになった。
 嘉永六年(一八五三)には大坂昆布商において、「〓昆布をもって一の標準とされる」ようになり、元揃昆布の最上等と呼ばれた。
 二代目和兵衛の略伝や〓印の印鑑には元揃と書かず、本揃昆布と書いてある。
 徳田屋と川汲昆布は、永く深い関係がつづいた。
 青江秀の巡回紀行には、徳田屋と小板屋の相謀った年代を文政二年としているが、徳田屋の創業は文政四年(一八二一)である。和兵衛略伝の誤りとも思えないので、初商いの天保五年を一、二年遡る頃、和兵衛と久兵衛の出会いの年代とみておく。和兵衛が開業して一四、五年を経、海産物の商取引や品定めにも通じていた。天保の初めは和兵衛が、川汲昆布の精製に乗り出していくとしている略伝に拠る。
 安政元年(一八五四)、川汲の鮪漁場の経営を始める。安政四年(一八五七)、〓漁場は大鮪の豊漁に恵まれる。
 翌五年七月、初代和兵衛は七四歳で没した。
 二代目和兵衛は養子で、初代と親交していた小板屋久兵衛の六男(天保九年生・一八三八)である。初代没後、家督を相続して二代目を襲名した。
 
〓印元揃昆布の年表                (徳田屋和兵衛略伝に拠り)
天明五年(一七八五)   能登国珠洲郡飯田村徳田久治の三男和兵衛生まれる
文化元年(一八〇四)四月 和兵衛、箱館へ渡海。高田屋嘉兵衛持船観幸丸の水夫となる。のち〓一丸の水夫と
             なり、箱館より全国の諸港、千島エトロフ島への航海をする
文政四年(一八二一)   内澗町八幡坂下に徳田屋を創業、箱館港出入の船舶の諸貨物を取次ぎ、店頭で米穀
             や荒物類を販売する
天保五年(一八三四)   和兵衛は久兵衛ほか六名と相図り、川汲昆布の販売を始める
天保一一年(一八四〇)  川汲の漁業者七名に漁具や生活物資の仕込みをする
             大阪府昆布商・村井伊兵衛手船金吉丸・房吉丸・長栄丸に〓昆布の名声高まり、同
             浜の昆布より一把につき三〇文ずつ高値に販売される
嘉永六年(一八五三)八月 能登国穴水紬屋手船大観丸興之助、一把につき五〇文ずつ高値に買取り、大坂に廻
             航して大利を得る
             同観音丸茂兵衛と勢至丸某も買積して利益を得る
             〓印を昆布市場、元揃昆布の最上等とし、〓昆布と呼ぶ
安政元年(一八五四)四月 川汲村民一同の依頼を受けて鮪建網を経営、鮭建網も経営する
同 四年(一八五七)五月 鮪建網五百石余の大漁に恵まれる。ほか茅部鰊、鰮引網五か統新設
同 五年(一八五八)七月 和兵衛没す(七四歳)。二代目和兵衛(小板屋久兵衛六男)家督を継ぐ
文久二年(一八六二)から 観音丸茂兵衛・越前国敦賀□□屋手船幸丸市三郎・同立石屋手船某に販売、〓印の
             昆布の名声著しく高まる
  慶応年間中      
明治五年         大坂〓印金吉丸茂八に元揃昆布・鰮粕を川汲浜売り(初)をする
同 六年         加賀国粟ヶ嵜木屋藤左エ門手船明栄丸藤四郎に百石八百円で販売。大阪昆布屋金吉
              丸
              (この残り百石余を角本勝太郎が買受け、魯船ドラン号に搭載して横浜を経由し
              て神戸に廻漕して販売し、大利を得る)
同 一二年八月      〓印の昆布、秋津洲丸にて輸出(八月二六日函館新聞)。百石一、一七五円。(上
             物相場百石八〇〇円、並物六〇〇円)
同    一〇月     函館における農業博覧会出品。一等賞(賞金五円)
             大阪の泉茂八・三浦作左衛門・本間甚六、百石一、一七〇円の高値に販売(上物八
              〇〇円・並物六〇〇円)この年一二月、函館大火に罹災、家屋・倉庫全焼
明治一三年        浜方昆布薄漁、わずかに百石余、百石一、六二〇円に販売
同 一四年        中浜町商弘組および但馬国諸寄吉三郎・大阪泉茂八・三浦作左エ門・堀池半兵衛へ
              百石に付一、一一〇円に販売
同 一五年九月二二日   昆布生育不足し、二百石余の収獲。堀池半兵衛・泉茂八に百石ニ付一、五五〇円で
              販売
             大阪府昆布仲買阪田靏松〓「印鑑」川汲浜之内 土用獲三、一五四把。川汲〓小前
              三五戸、八〇艘
同 二二年二月五日    大阪昆布商より和平宛の品質吟味の要請状(注意状)
同    一〇月一五日  大阪府昆布仲買常平丸仁太郎に販売。〓「印鑑」川汲浜之内、遅秋取上・中・下七
              九〇把

〓徳田和兵衛 印鑑

 
 【資料1】  〓印の印鑑 (東京 徳田冨美 所蔵 函館市 徳田栄治 協力)
   印  鑑              和紙42センチ×113センチ
 (印1)
函館博覧会弐等賞 濱乃内出産
   一 本 揃 昆 布        印1 3.6センチ×1.9センチ
   三千百五四拾四把
      徳田(印2)
   但シ土用獲            印2 径0.8センチ
   右 者 今 般 大 阪 府
   阪 田 靏 松 殿 ヱ 前
   記 載 之 通 賣 渡
   候 所 確 實 也 依 テ
   印 証 如 件
    明治十五年
       九月廿二日
       函館〓印 (印3)
       徳田和兵衛 茅部川汲濱之内 〓徳田和兵衛 本揃昆布仕入所
                    印3 4.6センチ×4.6センチ
   大阪府
     昆 布 仲 買 御 中

〓徳田和兵衛印章


〓徳田和兵衛 印鑑

 
       印 鑑            25.3センチ×33センチ
函館博覧会弐等賞 濱之内
   一 本 揃 昆 布
     徳田
       上等 壱百九拾八把
       中等 四百〇七把
       下等 壱百八拾五把
      但し遅秋取獲
   右 者 今 般 大 阪 府 常 平 丸
   仁 太 郎 殿 に 前 記 載 之 通 り
   賣 渡 候 処 確 實 也 依 而
   印 証 如 件
    明治廿二年
    十月十五日
       徳田和兵衛 茅部川汲濱之内 〓徳田和兵衛 本揃昆布仕入所
   大阪府
     昆 布 仲 買 御 中
 
【資料2】
   明治廿五年七月編製
   徳 田 和 兵 衛 略 傅 下 調 書
       北海道渡島國函館區東濱町
            二代  徳 田 和 兵 衛
                        (東京 徳田 冨美 所蔵
                         函館 徳田 栄治 協力)
 
  徳 田 和 兵 衛 略 傳
一、余ハ天保九戊戌年二月十五日渡島國尾札辺村支(アザ)川汲村百廿壱番地ニ於テ出生セリ(漁業渡世 現今生産者)小板久兵衛ノ六男ナリ
一、弘化三丙午年閏五月十六日年九歳〓〓徳田家ノ養子〓ナレリ 同年ヨリ十三歳ニ至ル迄普通ノ教育ヲ受ケ傍ラ産業貨物ノ受渡等ヲ見習 十五歳ニ至テ業務ノ幾分ヲ負擔セリ
一、初代徳田和兵衛(養父ナリ)能州珠洲郡飯田村徳田久治ノ三男ニシテ 天明五乙巳年生レニシテ二十歳ノ頃即チ文化元甲子年四月ヲ以テ函館ヘ渡海シ、其節當地有名ノ豪商高田屋嘉兵衛氏ノ持船観幸丸及〓一丸両船ノ水夫トナリ 函館港ヨリ全國ノ諸港ハ勿論、別テ千島ヱトロフニ至ルヲ重モトシテ、年二回乃至三回位宛通商ノ便ヲ務ル事十有余年
一、文政四辛巳年大ニ見ル所アリテ、年来ノ水夫ヲ廃業シテ、函館内澗町八幡坂下ニ一ケノ店ヲ借受ケ、一商店ヲ開キ、同町筒井市左衛門ノ長女ヲ娶リ婦トナシ、商業ニ盡力シ、港内船舶ノ諸貨物ヲ取次、賣買シ、自家ノ店頭ニハ、米穀及荒物類ヲ販賣シ勤テ正(誠)實ヲ旨トシテ販路ヲ博メ追々繁榮ヲ覚タリ
一、天保五甲午年初テ近在及六ヶ場所ノ内川汲(現茅部郡 川汲村是ナリ)ヘ商業取引ヲセルニ、玆ニ同國人ニテ小板久兵衛ナルモノアリ 商業取引上及知己最モ深シ 同人及両三輩ノ知人ト相圖り 昆布賣買ノ業ヲ起セリ
一、天保十一庚子年 川汲村小板久兵衛外六名ヘ昆布採獲用具及鱈釣ノ漁具其他米噌塩等ノ物品ヲ貸附 仕入ヲナシ(現今ノ水産業ナリ)傍ラ村民ヨリ産物ノ依托販賣等ヲ営ミ居レリ
 然ルニ自分仕入場ノ昆布大坂東堀白尾町壱丁目 〓印昆布屋伊兵衛氏ノ手船長栄丸茂八、金吉丸傅蔵氏乗ノ両船ヘ販賣セシニ 其生質及結束ノ善良ナルヲ以テ 他ノ商船々頭モ競テ購求方ヲ望ム人数多ナリ
 然レ共右昆布屋ノ船ニ限リ販賣シ来ル事数年ナリ
 大阪ノ昆布仲買商ヨリモ、自分仕入方ノ昆布ヲ懇望スル人年ニ月ニ増シ、終ニ〓昆布ト云名聲ヲ得タリ。
 同濱ヨリ産出スル他ノ昆布ヨリ 壱把ニ付其節ノ鳥目三十文宛高値ニ販賣スルノ栄誉ヲ自然得ルニ至レリ
一、嘉永六癸丑年八月 能州穴水紬屋何某ノ手船大観丸與之助氏、昆布ノ生質美ニシテ且ツ乾燥結束等ノ善良ナルヲ見テ、同濱産他ノ昆布ヨリ壱把ニ付鳥目五十文宛ノ高價ニ買取リ、搭載シテ大阪ニ廻漕シテ意外ノ利益ヲ得タルヨリ、同 船観音丸茂兵衛同ク勢至丸何某等、競テ買積ヲナシ 是レモ亦充分ノ利益ヲ得タリト云 弊家ニ於テハ、仕入濱方昆布製造ニ一層ノ注意ヲ加ヒ産出セシムル為メ 大阪昆布商ノ人々ハ 〓印昆布改良ヲ好シテ 一ノ標準トシテ本揃昆布の最上等ヲ呼テ啻エ〓昆布ト云迄ニ至レリ
一、安政元甲寅年四月 川汲村民一同之依頼ニ付 鮪之建網ヲ新設シタレ共、手初ノ事故不馴之為メ 漸ク壱百廿石ヲ漁シ 此年鮪片前ノ直段壱円ニ付八拾貫匁ヨリ百弐拾貫匁迄ノ下直故大ニ損耗ヲ見ル
 同年秋八月初テ鮭ノ建網ヲ製造シテ 夏秋ノ両度ニ漁トリ該濱人民□□殖産ヲ起セリ
一、安政四丁巳五月 鮪網創業以来四ヶ年ニシテ五百石余ノ大漁アリ 直段モ壱円ニ付四拾貫目ノ安値ナレトモ 此年ハ米噌其他ノ物品モ廉價故相應之利益ヲ見タリ
一、同年冬季ヨリ濱方不漁加之米價高直ニ相成 村民難渋ノ旨ヲ以テ 一同ヨリ依頼ニ付 村米ト称シ米金若干ヲ貸與スル事 度々有之 其他産業ヲ營ム者ヘハ 米金ノ外物品等ヲモ貸與セリ
 茅部鯡場出稼ノ業ヲ開キ 又 鰮引網等ヲ新設スル事五統ナリ
一、安政五戊午年七月 養父和兵衛亡シ 此年余ハ二十壱歳ナリ 亡父ノ業ヲ継キ仕入濱方産ノ本揃昆布ハ勿論 乾鱈 鮊 鰮 鯡粕等ノ乾燥製造等ヲ注意シ益改良、盡力シテ亡父仕入時分ノ評價ヲ落サヽル事ヲ務ム
一、文久二壬戌年ヨリ慶應年度ニ至ルノ間ハ、観音丸茂兵衛 越前ノ敦賀□□屋手船幸丸市三郎乗及同所立石屋手船何某等相競テ買入 積載シテ大阪ニ於テ販賣 何レモ相應ノ利潤ヲ得ルニ據リテ一層〓昆布ノ名著クナレリ
一、明治元年ヨリ三、四年頃迄打續キ春季ハ鱈及鯡漁 夏秋ノ季ハ鰮漁モ有リ 又本業ノ昆布採獲モ相應ニ有之故 年々幾分ノ利益ヲ得タリ
一、明治四年七八ノ両月ハ 鰮大漁ニテ 函館辨天町佐野平兵衛氏ノ手船金比羅丸船長何某ナルモノ相雇 魚粕弐百五拾石 積載シテ 九月十二日川汲ヲ出帆ノ處ヱサン沖合ニ於テ水夫ノ疎漏ヨリ生シテ凪合ノ日ニ 積ミ荷崩レ積載ノ粕残ラス海中ヘ沈没セリ
一、余三十五歳ノ 即チ明治五年八月仕入場濱方ニテ本揃昆布 初手取弐百拾壱石参斗 鰮絞粕百五拾石 都合参百六拾壱石余 大阪〓印金吉丸茂八氏ヘ濱賣セリ(昆布百石六百八十円 鰮絞粕ハ参百円)是則チ買積ノ船 昆布場ヘ廻漕ノ初メナリ
一、明治六年ハ仕入場濱ノ内ノ昆布ハ 天然ノ生育宜シク且ツ土用前後共好天気續ニテ 昆布ノ収獲及乾燥等モ充分故 結束改良モ一層注意ヲ加ヒ 製造セシニ付加州粟ヶ㟢木屋藤左エ門ノ手船明栄丸藤四郎乗江 壱万把(弐百五十石ナリ)濱渡直段百石八百円ニ賣却セリ
 其他大阪昆布屋金吉丸江モ 百五十石 賣却シ 其残昆布壱百石余 函館旧内澗町物産商角本勝太郎氏買取横濱 神戸間通商魯國船ドラン号ニ搭載 神戸ヘ廻漕シテ大阪ニテ販賣意外ノ利益ヲ得ルナリ
 是則チ汽船積神戸廻漕ノ初メナリ
 如斯競テ余力仕入方 濱ノ内昆布購求スルモ 畢竟 昆布ノ善良ト常ニ正直ニ交際セシ故ナリト大ニ感心スル所アリテ 是ヨリ後ハ一層改良ニ注意ヲ加テ 第一ニ乾燥ヲ重トシ 結束ノ中込等取除テ製造セシ故 大阪ニテハ〓印本揃昆布 倍々聲價ヲ博セリ 依テ大阪昆布屋ノ手船、年々買積セリ
一、明治十二年ニ至リ航海大ニ便ナルニ付 京阪ノ商人数多入込ミ 為メニ乾魚 絞粕 昆布等モ漸々直段騰貴シ 本揃昆布百石ニ付壱千百七拾円ニ 大坂ノ商人泉茂八 三浦作左エ門 本間甚六氏等ヘ(壱万千六百廿四把即チ五百八十弐石壱斗)賣却セリ 此年ハ前年ヨリ操越シノ玉囲鰮粕及春期鱈漁鯡 夏秋鰮漁等相應ノ収獲アリ 且ツ直段モ高價ナル故大ニ利益ヲ見ルニ至レリ
一、仝年十二月六日夜 堀江町ヨリ出火 函館未曽有ノ大災害ニ罹リ 家屋ハ勿論所有ノ倉庫不残烏有ニ属ス 是レカ為メ家財ハ無論 漁場仕入ノ物品等悉皆焼失シテ殆ト身帯(身代)ノ過半ヲ失ヘリ
一、明治十三年ハ 濱方昆布意外ノ薄生故 漸々百石余ノ採獲ナリ 依テ昆布産出モ季ヲ後レ 九月廿九日 百石ニ付壱千六百廿円ニ大阪商人泉茂八 三浦作左エ門ノ両氏ヘ賣却セリ
 此年春季鱈漁及干鮹ハ大漁ニテ 八百円余ノ収入額ヲ見ルニ至レリ 且ツ夏秋ニ至テ鰮モ相應ノ漁獲有リテ百石ニ付 壱千〇廿円ヨリ九百五十円迄ノ直合ニテ 参百弐拾壱石壱斗 高橋七十郎及 倉田和吉ヘ賣却シ猶残粕弐百石ハ中濱町田中半四郎氏ヘ 川汲濱渡百石ニ付八百八拾円ニ賣却セリ 為メニ此年モ大ニ利益ヲ見タリ
一、明治十四年ハ仕入濱方昆布ノ生育宜シク 既ニ五百石程ノ収獲有テ 中濱町商弘組及但馬國諸寄吉三郎 泉茂八 三浦作左エ門 堀池半兵衛氏等ヘ百石ニ付 壱千百拾円ニ賣却セリ
一、明治十五年ハ昆布ノ生育不足ニテ弐百石余ノ収獲ナリ 百石ニ付壱千五百五拾円ノ直合ニテ堀池半兵衛 泉茂八ノ両氏ヘ販賣セリ 是ヨリ爾来大阪商人入込 泉庄兵衛 泉弥三治 泉幸吉等ノ諸氏年々競来テ賣買取組ヲナセリ
 
附 言
 明治五年 余三十五歳ノ度 大阪〓印金吉丸茂八氏昆布場所ヘ直チニ廻漕セシヨリ 昆布採収ノ業日一日ト増殖シテ 殆ト採収ノ場所狭隘ニ至ルノ勢ナリ
固ヨリ昆布生育ノ場所ニハ限リ有ルニ、限リナキ採収者ナルヲ以テ是レヲ毎戸ニ賦スレハ一戸ノ収獲高 僅々タルモノゝ如シ 玆ニ於テ余又一ツノ考念ヲ懐ケリ 養父此業ヲ起セシヨリ三十三年余 又タ本業ヲ継續スル事十有五年ノ久シキニ至レリ
其業 業ヲ営ムモノ蕃殖スルモ亦宜哉 此上ハ収獲高ヲ減スルモ 一層勉励シテ乾上ケ 結束等ヲ精密ニシテ無類最上ノ仕上ケナラシメ 是ニ〓昆布ノ印證ヲ附シテ販賣セハ 譬ヘ貨物ノ石高ハ減スルモ 収入金高ニ格別ノ差違無カルヘシト 此年ヨリ〓昆布ノ印證ヲ附シテ販賣セリ
然ルニ推量ノ如ク 同濱ノ昆布ニテモ余力仕入ノ昆布ニ限リ他ヨリハ二割半ノ高値ニ直合ノ定ルヲ以テ 一般普通ノ相場トス 爾来今日ニ至ル迄 何レヘ販賣スルモ 右相場ヲ以テ廣ク取引シ来レリ
尤モ養父本業ヲ営ミタル際ハ 仕入戸数七戸ナルモ 余本業ヲ継續シテヨリ明治廿三年迄三十七戸ノ多キニ登レリ
 
一、明治廿二年 函館区内ニ於テ水道工事起業ノ協議有之ニ際シ 是レカ賛成者ノ一人トナリテ 公債ノ幾分ニ加名セリ 又其他従来都テノ慈善事業ニハ應分ノ義務ヲ負擔シテ常ニ其席末ヲ穢力セリ
一、明治四年七月中 ヽ等率先シテ旧内澗町五十五番地亀井勝蔵外拾名協議ノ末 公衆通行ノ便宜ヲ計リ 其筋ノ許可ヲ得テ 同五十五番地ヨリ六十四番地辻嘉吉所有地尻迄ノ埋立新築シ 余右工事仕拂方ノ事務ヲ擔当シ翌年工事成功セリ
 右新築ノ海岸通り 道巾三間 地主ヽ等ヨリ上地セリ
 
 賞與及事務負擔之辞令等ヲ拜受セシ事左ノ如シ
一、嘉永三庚戌年六月 旧松前藩主松前志摩守様 福山城新築ノ際 亡父和兵衛 國恩ノ幾分ヲ報センカ為メ右新築費ノ内江金五拾両献上セシ處 其賞トシテ 藩主御紋附ノ木杯壱ト組拝受セリ
 
                     徳 田 和 兵 衛
  鶴岡學校經費之内ヘ金三円差出候・奇特之事ニ候依テ其賞トシテ木杯壱個被下候事
   明治十一年三月三十日                 開 拓 使
 
                     徳 田 和 兵 衛
  市街溝渠修繕經費之内ヘ金弐円五拾銭差出候段奇特之事ニ候 依テ其賞トシテ木杯壱個被下候事
   明治十一年十月三十日                 開 拓 使
 
                     徳 田 和 兵 衛
  寶學校經費之内ヘ金五円差出候段奇特之事ニ候依テ其賞トシテ木杯壱個被下候事
   明治十一年十一月廿四日                  開 拓 使
 
                     徳 田 和 兵 衛
  第一公立病院經費之内ヘ金拾円差出候段奇特之事ニ候 依テ其賞トシテ木杯壱個麻壱把被下候事
   明治十一年十二月十四日                  開 拓 使
 
                     徳 田 和 兵 衛
  金蘭學校經費之内ヘ金三円差出候段奇特之事ニ候 依テ其賞トシテ木杯壱個被下候事
   明治十一年十二月十九日                  開 拓 使
 
                     徳 田 和 兵 衛
  函館公園築造經費之内ヘ金拾円差出候段奇特之事ニ候 依テ其賞トシテ木杯壱個麻壱把被下候事
   明治十二年十一月一日                   開 拓 使
 
                     徳 田 和 兵 衛
  虎列拉病豫防經費之内ヘ金五円差出候段奇特之事ニ候 依而其賞トシテ木杯壱個被下候事
   明治十二年十二月廿六日                  開 拓 使
 
                     徳 田 和 兵 衛
  客歳十月中虎列拉病豫防之為メ東濱町旭橋ヨリ豊川町迄ノ川中ヘ入費之内金拾円差出候段奇特之事ニ候 依テ其賞トシテ木杯壱個麻壱把被下候事
   明治十三年一月廿八日                   開 拓 使
 
                     徳 田 和 兵 衛
  函館新築公立病院世話係申付候事
   明治十三年十二月三日                函館支廳 民事課
 
                     徳 田 和 兵 衛
  河汲學校經費之内ヘ金拾円差出候段奇特之事ニ候 依テ其賞トシテ木杯壱個麻壱把被下候事
   明治十四年十二月十九日                  開 拓 使
 
                     徳 田 和 兵 衛
  函館公立病院新築費之内ヘ金五円差出候段奇特之事ニ候 依テ其賞トシテ木杯壱個被下候事
   明治十四年十二月廿八日                  開 拓 使
 
                     徳 田 和 兵 衛
  函館公立學校新築費之内ヘ金三円差出候段奇特之事ニ候 依テ為其賞木杯壱個被下候事
   明治十四年十二月廿八日                  開 拓 使
 
    撰 挙 状
  其許義當区商況通信者ニ撰挙シ商況通信之事務委嘱候事
   明治十六年三月八日                    函館区役所
        徳 田 和兵衛 殿
 
      商事通信者          徳 田 和 兵 衛
  手当トシテ金弐圓下賜候事
                              函館縣 勧業課
 
      元商況通信者         徳 田 和 兵 衛
  通信上勉励ニ候為手當金弐円被下候事
   明治十七年十二月十七日
                              函館縣 勤業課
 
    撰 挙 状
  其許義當区商工事通信者ニ撰挙シ商工事通信ノ事務委嘱候事
   明治十七年十二月廿三日                 函館区役所
        徳 田 和兵衛 殿
 
      函館商工事通信者       徳 田 和 兵 衛
  通信方勉励ニ付為報酬金三円下賜候事
   明治十八年十二月廿八日                 函 館 縣
 右之通相違無之候也