鱈は「越前のもの天下第一等なり」と東医宝鑑にある。天明の頃より、箱館近在の恵山岬の村々で、冬の漁業として鱈釣りが盛んになった。
とくに六箇場所のヲサツベ場所、椴法花・尾札部・臼尻産のものが最上といわれて、寛政の初めに江戸に送り出された。
最上徳内はその著「松前史略」の寛政元年(一七八九)の条に、「東部ヲサツベ初(はじめ)て塩鱈を江戸に出す」と記している。
まだ幕府直轄以前であったが、東回り江戸への航路もひらけて、東蝦夷ヲサツベ場所は有名になった。とくに、臼尻の弁天島という天然の良港をもち、五百石積の大船が荷積に停泊することができたので、寛政の頃には、尾札部場所の臼尻の鱈として声価を博するようになった。
松前秘説に拠れば、「椴法華村の鱈は最上とされ献上物は、同地の産から選ばれた」とある。
また、同書に「根田内より臼尻迄の場所を鱈場所と唱へ、就中、椴法華の鱈最上のよしにて有之由、此内にて最上に相成候よし味ひよく最上と云。誠に臼尻よりも鱈の丈ケもよき様なり。」(松前秘説=高田屋嘉兵衛蝦夷出産申上書)と記している。
椴法華村は、ヲサツベ場所の支村として栄え、明治九年に分村独立した。
根室場所の西別の献上鮭製造場とならんで、臼尻の献上新鱈製造場は、蝦夷地の特産物の製造地として、その名を認められるようになったのは、幕府直轄以後のことである。
ひと塩ものの鱈が年の暮れに送られて、江戸の新年の用に供され、新鱈といわれて珍重された。この塩鱈は、腹を裂かずに腸をツボ抜きして塩漬にしたものであった。ひと塩ものは、江戸までの冬の航海日数にも充分貯蔵に耐え、程よい味と正月への鮮魚としても似合い、何よりも腹を裂かないことが喜ばれたという。