弘化二年(一八四五)、この地を旅した松浦武四郎は、その蝦夷日誌巻五「板木(安浦)・清水川(精進川=編者注)」のところで「少し畑もあり、然し石多き土故に、野菜甚(はなはだ)よろしからず」と記し、川汲村では「麦のまだ筆穂をぬきんでたる斗(ばかり)のものを見たり。尤(もっとも)其耕り方を問ふに、種を卸せしより取入る迄一度も手を入ると云事もなくしておくよし語りける。(略)此地耕さずしてかくのごとくよく出来るも一作なればかと思はる。村の畑、隠元豆、馬鈴芋、大根、稗、粟、小豆、茄子、大豆等よろし」と記している。
尾札部では「人家八十軒斗(ばかり)。小商人(こあきんど)二、三軒、漁者のみなり。畑は沢山になけれども少しづつ耕す」とある。
旅になれた武四郎は、土地の人々にものを尋ね、その土地の特長をよく捉えて書き記している。この地の当時の農耕の様子をよく伝えていると思われる。
熊泊(大船)や臼尻村の項で昆布小屋について記していて畑作について記されていないのは、畑作が全然なかったのではなく、沿道から裏山の畑が見えなかったためだろうと思われる。
嘉永七年(一八五四)「六ヶ場所書上」に当時の村々の畑作のあらましが記されている。
「野菜物之外(ほか)粟稗少々畑作仕候(つかまつりそうろう)」と書上ている村々は、鹿部 砂原 掛り澗 鷲ノ木持尾白内、同森、鷲の木で、「野菜物之外粟少々畑作仕候」とあるのは、落部持茂無部(もなしべ)、野田追である。
「野菜物之外 畑作無御座候(ござなくそうろう)」とあるのは、小安村 同釜谷 同汐首 同瀬田来 戸井 同鎌哥(かまうた) 尻岸内持日浦尻岸内、同古武井 同根田内 尾札部持椴法花 同木直し 尾札部 同川汲 臼尻持板木 臼尻 同熊泊り 鷲ノ木持棒美 蛯谷古丹 本茅部 石倉 落部である。
六箇場所の村々は、どこもみな野菜物を自給自足していたので野菜物のみとして報告しているところ二四、ほかに粟を少々畑作していたところ二、粟、稗を少々畑作として届けたもの鹿部ほか僅かに五である。