木直大正神楽

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明治四五年七月三〇日、明治天皇が五九歳で崩御なされ、年号は大正と改元された。
 木直の佐々木常作・渡辺竹次郎・渡辺林助らは、青年の健全な活動と地域の娯楽に、南部神楽を導入することを話し合い、この年の一二月、南部(岩手県)の久慈出身の神永徳平を師匠に迎えて、在村の青少年に教えてもらった。当時一七歳から二三歳までの青年一二名で始めた。
 大正神楽の事始めについて、神楽の創始者(発起人)のひとりである渡辺竹次郎翁(明治二七生)の懐古談をきくと
 
   明治が大正と年号が改まった年の一二月、〓佐々木の秋味網が切り揚げると、同じ歳の常作と年上のト渡辺林作と三人で語り合って南部神楽を習うことにした。私と常作は二〇歳になる年だった。あとから〓民谷元吉も入った。
   鰊場所にきていた南部の神永徳平という人を頼んで師匠にした。体の大きい人で、笛を吹く人だった。はじめ集まったのは一二人だった。
   練習は晩だ。二〇日余りも神社で稽古した。前の別当さんが毎晩ついてくれた。
   道具を用意するにも、誰ひとり見たことがないものだから〓に蛸積みにきていた南部の人に頼んで面を譲ってもらったり、衣装を函館に買いにいったものだ。川汲の〓坂本から笛を借り、神主から鈴を借りてやった。
   私は神楽が好きだったから、夕方になれば早い者が来て太鼓をたたく。太鼓が鳴れば、私の家は店だったから、晩飯が遅いので、晩飯くうのもせかせられて飛んで行ったものだ。約一か月稽古をした。足ぞろいしたのは〓の家だった。大正二年の旧正月だった。
 
 初めて公演披露したのは大正二年二月二八日で、公演によって得た浄財四円を函館無料宿所に寄付して所長より感謝状をうけた。
 翌大正三年にも公演した浄財を本道凶作の救援費に金三円を寄附して、この年一二月に北海道庁長官西久保弘道より感謝状をうけた。

感謝状 大正3年

 以来、旧正月行事として地域の青年たちが公演して代々、大正神楽を継承してきたものである。
 この時以来、神楽を習い、舞い・笛・太鼓・拍子に精進することは、木直の青少年の誇りと喜びとなった。公演は、木直の年中行事となり、その名声は次第に近隣の村々にも伝わり、望まれて公演にでかけるようになった。

木直大正神楽 鳥舞 昭和44年7月15日STV収録 ピリカ浜

 渡辺翁の談話はつづく。
 
   尾札部や古部に出かけて公演して喜ばれた。
   茅部丸で元椴法花にあがって、古武井、根田内、尻岸内でも公演した。
   女那川の川は渡し舟があって、一人二銭の渡し賃を十三人分払って渡してもらった。
   毎年旧正月になれば、元日から大正神楽の会場に家を貸してくれた。会場の家で、台所の食器棚に正月のご馳走をしまっておいたら、入ったお客が煮〆やご馳走の上に下駄をならべておいて、正月料理が食べられなくなったこともあった。それでも家の人は怒ることもなかった。
   見物客が大入満員で、会場の家の部屋の根引きを折ってしまって弁償したことも度たびあった。
   初公演の次の年、函館に注文して、一番上等の太鼓を買い求めた。一三円だった。
   私は神楽がやりたくて入ったが、道具こしらえと、会場の交渉や警察の許可の手続き、花の経理で忙しくってなかなか出してもらえなかった。
   尾札部に公演にいくときは、雪道を山越えしていく。途中の盤の沢の曲り角あたりの雪に、"誰それ、誰それ行った"と雪文字を書いて、あとから来る者への合図をしていった。

渡辺竹次郎翁(右) 佐藤正則(左)

 昭和四年、大正神楽の保存育成の将来性を考えて木直報国青年団(団長船登富一、副団長今川幸四郎、民谷義男)にその継承が委ねられた。
 村中はもとより下海岸の戸井、尻岸内椴法華、古部や尾札部川汲と隣村地域にも巡演した。こうして大正神楽は木直の人たちはもとより、隣村の人たちにも深く親しまれるようになっていった。
 昭和一〇年、NHK函館放送局の皇太子降誕記念「全道青年の夕べ」に出演して、全道にラジオで放送された。
 
 民谷義男(明治四二生)談
   昭和一〇年、NHKラジオ「全道青年の夕べ」の放送のときは、丁度、昆布採りの時期で、〓の車で川汲峠をこえていった。
   湯の川でNHKの迎えの人に、昼食をご馳走になった。放送はラジオだから舞いはなく、笛、太鼓、鉦のお囃子で、私はタイム係だった。出演は、〓今川幸四郎、竹松村多一郎、寸木沢賢一郎、〓佐々木定雄である。
 
 昭和一二年日華事変が始まり、戦争の拡大に従って団員の応召、出征があいつぎ、遂に神楽の公演はできなくなり中断しなければならなかった。
 昭和一七年秋、当時、木直西部常会長であった今川幸四郎は、出征家族の慰問と国防献金の目的で、神楽の復活をはかった。
 当時一七歳から二〇歳までの青年達を集め、青森県陸奥横浜の馬場正二郎を招いて指導を受け、神楽舞を再現した。
 こうして公演は地域の共感を呼び、浄財がつのられ、たびたびの国防献金に対して、海軍大臣、陸軍大臣より何枚も感謝状を贈られた。戦争が激化していった昭和一九年から終戦の年まで再び中断の時期をすごさなければならなかった。
 戦争が終わって、再び平和が訪れた昭和二二年の暮れ、当時、尾札部消防団第三分団長であった今川幸四郎は、神楽愛好者の松村政一・木沢賢一郎・松村多一郎らの協力を得て、分団員の神楽経験者による木直大正神楽倶楽部を結成して、再度、大正神楽の復活を図った。
 物の不自由な苦しい日々が続いたが、今川幸四郎の神楽復活の情熱に賛同する人たちが力をあわせて平和の喜びに和す如く、再び大正神楽の拍子の音が木直にきこえはじめた。木直の人たちが待ちのぞんでいた平和の日の神楽舞のお囃子がなりひびいた。
 住民の慰安と消防用具・器材の整備のために、巡業公演をつづけて大きな成果をあげることができた。
 
 田名部直司(大正一四年生)談。
   当時の木直青年団の綱領は、「我ら青年なり ひとつ 己のため ひとつ 家のため ひとつ 世のため 全き人たらん」
   青年活動をすることは、青年の生き甲斐だったし、大正神楽に入ることは、青年の誇りでもあった。兵隊にいくまでつづけた。〓今川幸四郎翁は、青少年の育成に情熱的な人であった。
   戦争が終って復員すると、消防団の活動として神楽は大きな役割りを果たした。
   各町村の消防団にわたりをつけて、会場の設営など、旧正月かけて出かけた。
   函館の京極座で昼夜三日間、津軽民謡の三上つる一座と合同で公演したことがあった。宿は駅前の江差屋だった。収益は、すべて消防団の器材購入資金や、公共への寄附金にあてられた。
   当時はものは貧しくても、大らかでよき時代であった。
   砂原の忠魂碑の祭りにいったことがある。鹿部の劇場でもやった。冬やれない年は、お祭りに神楽を披露した。
 
 いかなる伝承も決して平坦な道はなく、木直大正神楽においても例外ではなかった。
 昭和四〇年、今川幸四郎を代表に、木直大正神楽保存会を結成し、後世に大正神楽を継承するため後継者の養成につとめた。大正神楽を郷土芸能として保存育成するため、町の協力もあった。
 木直大正神楽は、道内各市町村に広く紹介された。昭和四二年六月一日、恵山でおこなわれた観光まつりにも招かれて出張公開した。
 この保存と後継者養成の問題が急務となり、木直小学校並びに町教育委員会の協力を得て、これを小学生にも呼びかけたところ、昭和四二年一二月二三日午後五時四〇分よりNHKテレビ子供ニュースの時間に「もうすぐお正月、神楽をならう小学生」として放送され、全国に紹介されて好評を博した。
 昭和四四年、第一回渡島管内文化祭が函館駅前拓銀ビルの七階ホールで開催されたとき、松前神楽とともに木直大正神楽も管内の代表的芸能として紹介され公演した。
 出稼ぎと過疎の波に後継者が憂慮されていたとき、保存会の支柱と仰がれていた今川幸四郎翁の死(昭和四六年)、そして翌年、小田原作次郎翁の死は木直大正神楽存続の危機となった。
 昭和四九年一二月、三〇数年ぶりで太鼓の佐々木定雄の復帰は、神楽保存会を再生させる原動力となった。翌年、小学校の協力で少年の入会、その年の小学校の学芸会での発表は、予想外の感激となって喝采を博した。
 昭和五三年一月五日、晴れて大正神楽創始六五周年を迎え、創始者のひとり渡辺竹次郎翁らを上座に、木直母と子の家で盛大な記念の祝賀会を開催した。
 歴代の会員も集(つど)い、神楽舞を披露した。
 七月一日、町の漁業開拓三百年式典で感謝状を贈られる。昭和五四年九月二一日、町の無形民俗文化財の指定を受ける。
 昭和五五年一月三〇日、保存会一行八名で研修旅行に青森県横浜町を訪れた。戦争中復活したときの馬場正二郎師匠を訪ねると、すでに老齢のため病床にあった翁は、佐藤正則会長の手を握ってよろこび感激の再会をした。
 昭和五六年夏、大正神楽の取材にSTVが来町、翌五七年七月放送された。
 五六年一〇月、北海道文化財保護協会より道文化財保護功労者表彰を受彰。