平安時代の律令祭祀

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平安時代には、斎串(いぐし)・土馬(どば)・土鈴・鉄鈴・勾玉(まがたま)(土製・石製)・小玉(土製・石製・琥珀(こはく)製・ガラス製・水晶製)などのほか、祭具と考えられる主に手捏(てづく)ねの小型特殊土器が出土している。これらは、いずれも律令期には一般的な祭祀遺物である。それでは、この事実をもって津軽地方には土器の様相と同じく、律令的内容をもった祭が行われていたと考えてよいのであろうか。都城および地方官衙(かんが)遺跡などで認められる律令的祭祀の実態と比較しながら、津軽地方の様子をみてゆくことにしよう。
 八世紀初頭に成立した『大宝令』「神祇令」には国家的祭祀が規定されており、考古学的に律令政府の祭祀政策と関連をもつ遺物として、木製模造品の成立が考えられている。また、道教系の技能者である呪禁師(じゅごんし)の制度も令に伴って移入されている。弥生・古墳時代に原型をもつとされる木製模造品は、七世紀後半の天武・持統朝における律令的祭祀の最初期に複数の新種が出現することや、分布が地方官衙遺跡にまで及ぶことで画期が認められ、九世紀代に最盛をみる。そして、官が行った律令的祭祀のなかで恒常的な祭祀には木製品が用いられ、重要な祭祀には金銅製品が用いられる一方、民間の祭祀においても木製品が用いられた。その種類は、武器・農工具・楽器・乗物・人・動物など多彩であるが、畿内を中心とする諸地域では人形・馬形・舟形・斎串がセットをなすと考えられるケースがある。木製模造品の出土状況は、井戸や溝である場合が一般的である。
 古墳時代から平安時代にかけて使用された土馬の分布も全国的であるが、畿内地方における出土が顕著であるという。平安時代における土馬の製作目的としては、井戸祭祀、河川祭祀、祈雨(きう)祭祀といった水に関連する祭祀が想定されている。土馬の出土する遺構は、しばしば諸物の廃棄処理に当てられる溝である場合が多く、一度祭祀に用いた祭具については、効用喪失あるいは転用忌避のために故意に破損して投棄したことが考えられる。
 九世紀初頭に優れた呪術体系を備えた密教が国家仏教として採り入れられてから、九世紀後半には都城では、道教的呪術は国家祭祀から疎遠になり、土馬も姿を消すといわれている。一方、この動向は直ちに地方には伝わらず、逆に道教的な祭具が増加する。すなわち、古代末から中世における道教的呪術普及の背景には、呪禁師に替わって出現する陰陽師(おんみょうじ)をはじめ、遊行する呪術的、宗教的職能民の存在がかかわっていたとみることができる。
 道教系の信仰と関連して、井戸・溝・河川など水にかかわる施設から出土する牛馬遺体も全国各地で知られている。これらの遺構のうち井戸から出土した牛馬遺体については、井泉の涌出(ゆうしゅつ)を祈る祭具として最初から部分的部位だけを投入する例が多かったと考えられている。また、古代史上でも議論の多い、いわゆる殺牛馬信仰は、雨乞いなどの農耕儀礼にかかわるものとする説と、怨霊の祟(たた)りを祓(はら)い鎮める祀(まつ)りであり延暦期に盛行した外来の漢神信仰としてのものとする説がある。ただ、牛馬の単一の歯が水利に関連した遺構だけからではなく、竪穴住居跡からも出土していることを考え合わせると、平安時代には骨や歯には呪物としての観念が存在しており、雨乞いや日乞いなど、当時の人々によって超自然と判断された事象全般にわたって用いられたと推定される。