津軽地方の古代信仰

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津軽地方では、青森市細越遺跡の九世紀末~一〇世紀前半期とされる水路跡から斎串(いぐし)が、木造町石上神社遺跡の一〇世紀前半代に中心をおく集落遺跡とされる大小の用排水路からは、斎串と馬形類似品が出土している(図24)。これらは、都城あるいは官衙遺跡から出土している木製模造品と比較すると、形態的にも差異が認められ、地方化した印象を受ける。また、人形が欠落していることなども考慮すると律令的祭祀と同一線上では扱えない可能性もあることから、律令的祭祀に用いられた木製模造品とは区別しておく意味合いで、ここでは木製形代(かたしろ)類と呼んでおきたい。

図24 津軽地方木製形代

 土馬は東北地方では類例が極めて少ないが、黒石市甲里見(こうさとみ)(2)遺跡第二号竪穴住居跡床面から出土している(図25-1)。他にカマド燃焼部から土製勾玉、覆土(ふくど)から手捏(てづく)ね土器四点といった祭祀遺物が出土しており、九世紀前半の所産と考えられている。なお、第一号竪穴住居跡覆土からは土玉が出土している。また、八戸市岩ノ沢遺跡の九世紀前半とされる竪穴住居跡からも土馬が出土している。

図25 津軽地方祭祀遺物

 土鈴については、東北地方では陸奥国を中心に分布していて、出羽国にはほとんどみられず、窯業関係、祭祀関係、製鉄・鍛冶関係の遺跡に多いが、遺構内からの出土で最も多いのは住居跡である。このような出土状況から、工人たちが作業の安全を祈願するために使用したと想定する説もある。青森県内では、浪岡地域遺跡群を中心として出土例が多い。浪岡町山元(2)遺跡(図25-7~13)では四六点、高屋敷館遺跡では二一点という多数の土鈴が出土している。
 奈良・平安時代の文献史料から、東北地方で多くの馬が生産されていたことが知られている。青森県内でも馬の飼育が行われていた可能性が大きいことは、平安末期の「糠部(ぬかのぶ)」が馬産地として知られていることからも首肯(しゅこう)できるであろう。また、八世紀後半には牛の飼育が行われていたことが、百石(ももいし)町根岸遺跡で判明している。このほか、一〇世紀後半から一一世紀前半の浪岡町大沼遺跡の溝(SD11)底面近くからは、牛の左下顎骨(かがっこつ)が出土している。遺跡出土の馬骨は、八世紀代の李平下安原遺跡で少なくとも四頭分以上出土しており、そのうち一頭は一歳未満、ほかの個体も四歳未満の若い馬であった。当時の県東側地域にあっては、馬が極めて重要な交易の対象であったという状況から考えると、全国的に展開する農耕儀礼や雨乞いを含む用水確保のための儀礼に牛馬の骨歯を用いることが、畿内を中心とする地域と同じように、この地で一般的に行われていたとするには少なからず躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ない。また、一〇世紀後半から一一世紀代を盛期とする弘前市早稲田遺跡の堀跡(第一号)および井戸跡(第一一二号土壙)の底面直上から出土した馬の上顎(じょうがく)・下顎歯(かがくし)については、祭祀的活動の可能性が考えられている。ほかに、九世紀代の青森市三内遺跡では、第四四号竪穴住居跡カマド前床面から左上顎歯と推定される馬歯が出土しており、一〇世紀代の大鰐町砂沢平遺跡でも第五号竪穴住居跡床面で検出された土壙から馬歯と考えられるものが一〇本分以上まとまって出土している。
 関東地方の例になるが、東京都港区伊皿子(いさらご)貝塚遺跡の九世紀中葉の竪穴住居跡でも、カマドの焚き口部に近接する床面から馬の上下顎骨が出土している。この位置での出土状況から考えると、祭具として用いられた可能性を考慮しておいてよいであろう。民俗例では、宮城県から岩手県南部にかけては、カマド神の信仰として土間のカマド付近の柱や壁に土や木の面を祀る風習があり、この類の信仰が存在した可能性が考えられる。
 仏教系文化については、寺院の痕跡は確認されていないが、細越遺跡の土壙からは「寺」の墨書土器、平賀町鳥海山遺跡の竪穴住居跡からは「大佛」の刻書がある須恵器転用硯(けん)といった文字資料が出土している。仏具としては、尾上町李平下安原遺跡では鉄製錫杖(しゃくじょう)が、また、浪岡町高屋敷館遺跡第六五号および第七四号竪穴住居跡でも錫杖状鉄製品が出土している。この他、尾上町五輪野(ごりんの)遺跡第三二号竪穴住居跡からは鐃鈴(にょうれい)体部(鉄製)、柄香炉(えごうろ)の柄部(鉄製)・飾り部(銅製)・蓋部(がいぶ)(銅製)が近接して出土し、第三三号竪穴住居跡からは鉄製三鈷鐃(さんこにょう)が出土している。錫杖状鉄製品は、蓬田大館遺跡でも三鈷鐃伴っていることなどから、神仏習合の要素をもつ密教系の呪術性の強い祭祀具であるとみられている(図26)。

図26 仏教文化の遺物

 おそくとも六世紀頃から、日本の民俗信仰の展開の方向は、空間的には畿内を中心とする地域とそれ以外の地方に、階層的には支配者を中心とするものと農民層の信仰との二者にかなり明瞭に分かれるようになっていたとされているが、平安時代津軽地方にみられる祭祀遺物は、律令的内容を受け入れながらも、一般民衆レベルの古代信仰として地域的な独自の展開を遂げた可能性を考慮しておくことで、後世の地方色ある民間信仰の発達へと跡づけることができるのではないであろうか。