図27 初現期~盛期の擦文土器
先にも触れたように、原エミシ文化の時代に東北地方北部や石狩低地帯を中心とする地域における続縄文・土師器混交文化の担い手たちによって母体が形成された擦文文化は、続縄文文化と土師器文化の両者の特徴を併せもって北海道地方を中心に展開した独自の文化である。顕在的な物質文化の面では、日常容器としての土師器を指標とする農耕文化の生活様式を大幅に採り入れているが、続縄文以来の伝統的文様を土器に描き出すことで独自性を示し、狩猟・漁撈(ぎょろう)・食用植物などの採取といった採集経済を基盤としながら、アワ・ソバ・ヒエ・キビなどの雑穀類を主とする農耕を営むという特徴をもっている。
そして、擦文文化の担い手たちが採集経済に固執したのは、気候条件に規制されるという必然性はあったものの、極めて戦略的な選択でもあったと思われる。つまり本質的には、原エミシ文化の時代以来の混交文化を基盤として交易を維持、発展させた文化であったといえるであろう。
東北地方北部における北方的文化要素は、六世紀代と推定される北大Ⅱ式の時期、および九世紀代の擦文土器の時期に希薄な分布状況を呈しており、顕在化と潜在化を繰り返している。この問題については、周辺地域に展開した諸文化との関係も十分考慮に入れる必要があるのかもしれないが、基本的には擦文文化の指標のひとつである擦文土器に施された刻文の系譜は北海道地方を中心とする北方系の土器に求められる。また、採集活動そのものを交易活動の一環として考えると、決して断続的ではありえないのである。