四耳壺の出土

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ここで注目すべきことは、陶磁器の中で四耳壺(しじこ)といわれる器種が多く出土することである。壺の肩の部分に蓋をするための紐を通す耳がついた器であり、現在でも茶道の葉茶壺(はちゃつぼ)として珍重されている。この四耳壺は、当初、日宋貿易で日本に搬入されたものが多く、蓋をすることに一義的な意味があるため、内部に香木や葉茶・薬草などの珍品を入れて日本に入ってきたと考えられている。
 とくに中国製の白磁四耳壺は、陶磁器生産が未熟な日本社会のなかではとりわけ貴重な器であったらしく、全国的にも出土例は少ない。ところが一二世紀段階の平泉遺跡群の調査では数十個体が出土しており、全国的にも群を抜いた出土量がみられる。奥州藤原氏の経済力の豊かさを示す事例であるとともに、その使用目的が気にかかるところである。
 当時の絵巻物などに描かれている状況をみると、白磁四耳壺は酒器、つまり酒を入れる器として使用し、柄杓(ひしゃく)などでかわらけに酒を盛るための用途が推測される(写真82)。平泉では同時に出土するかわらけの量が一〇トン以上と厖大(ぼうだい)なことから、お祝い事や主従の契りを交わす重要な宴会の酒器として白磁四耳壺かわらけが使われたのであった。

写真82「鳥獣戯画」の四耳壺

 このように特別な場面で使われる陶磁器は、それを所持する人物の権威と重なってくる。中世初期の社会は武士階層の勃興(ぼっこう)期に当たるため、四耳壺の需要は権威を求める武士によって日増しに高まるようになるが、中国製の白磁四耳壺は総量が限られている。そこで登場したのが瀬戸や珠洲といわれる中世陶器生産地による白磁四耳壺の模倣生産である。
 津軽地域へ搬入された四耳壺をみると、白磁四耳壺浪岡城跡内館、瀬戸四耳壺は市浦村・伝山王坊遺跡、珠洲四耳壺中崎館遺跡をはじめとして田舎館村・平賀町・浪岡町などの地域から出土している(図33)。このうち、一定量のかわらけとともに出土するのは浪岡城跡内館と中崎館遺跡だけであり、酒宴の器と見なすことができる。しかし、伝山王坊遺跡の場合は内部に火葬骨が入っているため蔵骨器として使用されたことが明白であり、他の珠洲四耳壺に関しても単独の出土状況からすると蔵骨器的な使用形態を想定できる。

図33 津軽地域出土の四耳壺と経容器
1 白磁四耳壺(浪岡城内館) 2 瀬戸四耳壺(伝山王坊) 3 珠洲四耳壺(平賀町)
4 珠洲四耳壺(浪岡町源常平) 5 珠洲四耳壺(中崎館)
6 珠洲四耳壺(田舎館村) 7 珠洲経容器(鯵ヶ沢町)

 奥州藤原氏の時代は、白磁四耳壺が酒器としての権威性を有していたのに対し、鎌倉幕府成立以後、酒器としての権威性はしだいに中国製青白磁梅瓶(めいびん)や瀬戸瓶子(へいし)という器にとって代わられ、四耳壺そのものは蔵骨器などの冥界の権威へと移行する傾向がみられる。さらに、仏教の伝来を示す資料が経容器であり、これまで経塚文化の波及がなかったとされる津軽からの出土品として注目できるものである(図33ー7)。
 このように、中世初期の遺跡では古代まで一般的であった土器木器(漆器)という食膳具の使用形態に陶磁器が加わることに大きな特徴がある。陶磁器は日常の食器であるとともに、所有者の権威を示す器でもあった。
 以上の食膳具の動きに対し、食生活の基本ともいうべき煮炊(にたき)の道具、つまり「なべ・かま」の類では、それまで存在していた土器製品がほとんどみられなくなる。