安藤氏は、鎌倉幕府の北方支配の現地代官に登用されるに際して、古代の「以夷制夷」政策とも共通するような、蝦夷を支配するものは蝦夷でなければならないという主張に基づく蝦夷に連なる自己系譜と、北奥の覇者である安倍氏に連なる自己系譜を根拠として、この地位を独占した。
「蝦夷管領」という官職名は『諏方大明神画詞』にみえるもので、そこには「根本ハ酋長モナカリシヲ、武家其ノ濫吹ヲ鎮護センタメニ、安藤太ト云物ヲ蝦夷ノ管領トス」とある(史料六一七)。『保暦間記』(写真129)に「彼等カ先祖安藤五郎ト云ハ、東夷ノ堅メニ、義時カ代官トシテ、津軽ニ置タリケルカ末也」とある「代官」(史料五五二)、『鎌倉年代記』の「代官職」(史料六一九)、『安藤系図』の「津軽守護人」(安藤次季信、史料一一五二)も同じ官職を示すものとされているし、正中二年(一三二五)九月十一日付けの「安藤宗季譲状」(史料六二一)中に見える「ゑそのさた(蝦夷沙汰)」もこれにあたると考えられる。
写真129 『保暦間記』
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のちの江戸時代に成立した『武家名目抄』にも、鎌倉幕府の正式な職制として「蝦夷管領」がみえる。この官職名は、たしかにその職務内容を的確に表現したものであるとはいえ、前述したようにその初見史料が南北朝期成立の『諏方大明神画詞』であり、この名称そのものは、「関東管領」あるいは「奥州管領」といった室町幕府の職制名称の影響を受けた、後の時代の呼称とみるべきであろう。
この蝦夷管領職は、先の『沙汰未練書』にみえる「武家ノ沙汰」の一つとしての東夷成敗権(史料六一五)を体現するものである。幕府による蝦夷沙汰の具体例としては、先に夷島流刑について説明したが、幕府の夷島支配については、頼朝からの朝廷への奏請と、朝廷による認可がその前提として存在していた。鎌倉殿の夷島流刑といった行為は、まさに鎌倉殿が京都の朝廷より付与された「東夷成敗権」に基づくものなのであり、それを現地で執行していたのが蝦夷管領安藤氏であった。
早くも建久二年(一一九一)には、最初の京都官人(強盗)一〇人の夷島流刑が「奥州夷」安藤氏によって実施されている(史料五四三)。安藤氏は夷島流刑の、現地における執行者なのである。
こうした東夷成敗権なるものが設定された背景には、院政期(ちょうど道南地方で擦文文化が終焉を迎える時期)に顕著になった、異民族としての蝦夷認識の固定化(中央でのエゾ=アイヌという異民族視)があるらしい。
この時期から京都政界および京都市中において、北海道を含む蝦夷地とその産物への関心が高まったことについては、その地を詠み込んだ多くの和歌の事例にすでに説明したが、国家の重大な儀式の場にも、北海道を背景にした所出物が多く登場するようになる。たとえば鳥羽天皇即位による天仁元年(一一〇八)の大嘗会(だいじょうえ)に伴う白河法皇御禊行幸への参列者の装束のなかに、「熊形蛮絵・粛慎羽胡籙」(史料四九四・四九五)がみえている。北方特有の羆をかたどった絵や北方の鷲・鷹の羽で飾った弓矢関連用品がもてはやされていた。
このように蝦夷を異民族視し、異民族として支配するという新たな体制が、鎌倉幕府の蝦夷管領につながっていく。蝦夷系譜に連なる安藤氏が、この職務に就いたことは、こうした歴史的経緯を踏まえて考えるべきことなのである。すなわち安藤氏が蝦夷系譜認識をことさらに強調したことの背後には、現地で蝦夷の管轄に従事する者は蝦夷でなければならないという、古代の「以夷制夷」政策とも共通するような、国家政策とかかわるものであった。夷島流刑についても、穢(けがれ)を扱うものはやはり穢れたものの子孫でなければならないという、都人の認識があったのであろう。そこに犯罪人を連れていくというような職務は、並の人間には勤まらない。蝦夷系譜をもって自認する安藤氏こそが、こうした異民族地である蝦夷地での職務遂行にふさわしいのである。