事件の原因は、日高のシブチャリ川やニイカップ川の漁獲をめぐるシプチャリ近辺の集団(メナシクルという大集団の一部)とハエクルと呼ばれる集団(サルンクルまたはシュムクルという大集団の一部)の争いである。シュムクルは早くから松前藩の影響を強く受けていたが、メナシクルは、日高南部から現在の道東地域に勢力を張っていたため、藩の影響力も小さかった。両者の争いが表面化するのは、慶安元年(一六四八)、シプチャリ近辺の集団の「脇大将」シャクシャインがハエクルに属するオニビシの配下を殺したことによる。松前藩は、両者の争いが蝦夷地中のアイヌを巻き込んで大きなものに発展することを恐れ、両集団に戦闘の中止を促したが、効き目がなかった。
承応二年(一六五三)、オニビシ軍がシブチャリの「大将」カモクタインを殺害するに至って、松前藩は再び休戦を呼び掛け、二年後、カモクタインの死後「大将」となったシャクシャインとオニビシが松前で会見し和議が成立した。しかしその後も対立抗争が絶えず、寛文八年(一六六八)には、ついにシャクシャイン方がオニビシの居所に奇襲を加え、オニビシを殺害した。そこで、事件の様相は急転する。援助要請するために松前藩に遣わされたオニビシの姉婿ウタフが帰途疱瘡で死んだ。それが松前で毒殺されたとアイヌたちに伝わり、これに乗じたシャクシャインがアイヌに和人襲撃の檄(げき)をとばし、寛文九年六月、東は白糠(しらぬか)から西は増毛(ましけ)に至るアイヌが蜂起したのである。
図93.シャクシャイン像
松前藩は急遽(きゅうきょ)鎮圧に乗り出したが、当初かなりの苦戦となった。松前家から蝦夷蜂起の報を受けた幕府は、松前家の分家である旗本松前泰広(まつまえやすひろ)を下向させた。泰広は蜂起鎮圧の軍事指揮権を掌握し、自ら蜂起の現地に出立している(菊池勇夫『幕藩体制と蝦夷地』一九八四年 雄山閣出版刊)。やがて松前藩と蜂起アイヌ側の兵力の差が歴然となり、さらに松前藩側がアイヌ側を策によって分断し、アイヌの団結と戦闘力が弱まった。同年十月二十三日シャクシャインが戦死し、翌日にはシプチャリの砦が陥落した。その後アイヌ側は石狩地方のアイヌを除いて次々に降伏し、蜂起はほぼ鎮圧された。
蜂起失敗の原因は、まず松前藩と政治的・社会的に強い結びつきを持つアイヌも存在したことから、各集団の動きがまちまちで、しかも持続した協調行動が取りにくかったこと、さらにアイヌ社会全体が、地域差こそあれ、松前藩や本州社会との交易に依存した体質になっていたことが指摘されている(榎森前掲書)。