前期の津軽領における農地の表示方式は、石高制に直接に結びつく町段歩制ではなく、「人役(にんやく)制」が採用され面積が表示されていた。一人役とは、一人の人間が一日に耕作できる面積、一日当たりの耕作にかかる必要労働量から算出された面積を指し、一般には一人役(畑方では一ツ役)は二〇〇歩とされるという。しかし、元禄期以前では、畑方・屋敷地では一律に二〇〇歩に換算されるものの、田方では二〇〇歩が上限とされ、一律に町段歩制に換算ができるものではなかった。また、これによって表示される面積もまた、変動するものであったということができる。さらに、明暦検地帳による石盛はあくまで平均値であり、これら二つを乗じて算出される生産力表示もやはり、実際の生産力とは乖離(かいり)するものとなった。
労働量を基礎とする人役制による面積表示の背景には、石高制を一般的な形での土地所有の在り方として導入することに伴う困難があった。津軽地方は自然条件の影響を受けやすく、冷害や凶作がたびたび起こった。さらに、この時期は新田開発が集中し、生産量の増大が期待された。しかし、その反面、このような自然条件の下での新田開発は、生産が不安定な耕地を広く展開させることになった。そのため、津軽領では、石高制を導入するに当たり、人役制という生産にかかわる諸条件を労働量によって表示した換算基準を設定したのであった。その点でいうと、一石三斗という一律の石盛は、生産力を把握していなかったということを示すものではなく、在地の状況に応じて田地の面積に意味を持たせるという、生産力の把握のしかたを表現したものであったのである。
さて、こうした生産力の把握のしかたは、まず、村高に対して年貢を賦課するような村請形式をとりにくくした。耕地とその耕作者とを、地方(じかた)機構が直接的に掌握する傾向が強くなるのである。そして、「高」と生産力との乖離は、人役制によって実際に収取される年貢量と、一反に対して一律に一石三斗の割合で給人に与えられた知行高とが、存在した。
前期農政が、人役制を採用して生産力を把握しようとしたことは、土地の丈量(じょうりょう)、すなわち、検地を継続的に行うことに関心が向けられることになる。また、このような当藩の在り方は、石高制が貫徹しなかったということを意味するのではない。生産条件の厳しさなどから、一般的な生産力の変化を「高」を基準とはしない人役制を採用することで、把握しようとしたのであった。