しかしながら蔵米化以後も財政状況に伴う俸禄の借り上げは続いた。安永九年(一七八〇)、江戸・大坂での借財の増大に伴い、再び三ヵ年にわたって三分の一借り上げとなり、一〇〇石(四ツ物成により四〇石=一〇〇俵の支給)につき三分の一減の六六俵の支給に減らされた(同前No.四二)。これは銭・米・印紙の三通りによって支給された。うち二〇俵は藩が町人を通じて現金引き換えを代行させ、一俵当たり銀一六匁五分(年間三三〇匁)として、月割りで支給された。残り四六俵のうち、三六俵は現米で月割り(閏月がある年は一三分割)払いとし、残り一〇俵は手形で支給された。そのため相場によって引き替えの値段が違い、米価が安値の時で一俵当たり七~八匁、高値の時で一一~一二匁で取り引きされた。藩は手形を町人を通じて換金させ、七・八・九月と三分割して支給した。さらにこれに二歩の利息を加え、十一月に新米が出そろった際の「大相場」で精算をする方法となっていた(同前No.四三)。
しかし、三分の一借り上げという措置は特に下級武士の生活を直撃し、藤田権左衛門は「右の事ゆえ、御家中一統至極難儀の儀、某(それがし)などは実に極窮罷り成り、やむを得ざる事家財等この時多く売り払い、大小具足等も売り払い候」と嘆いている(同前No.四二)。藤田家は一〇〇石を給される中級の藩士であるが、その権左衛門にしてこのような状態であったのであり、さらに下級の藩士の生活はさらに厳しいものであったろう。安永九年の借り上げは藩主自らが一〇〇石以下の下級の者にも書き付けを出し、徳川家康が、三河時代に家臣自らが鋤・鍬を持って妻子を養った事例を引き、家臣一統協力してくれるよう呼びかけている(『記類』上)。藩当局にとっても知行借り上げは無制限のものでなく、「恥辱(ちじょく)」と考えられる姿勢はあった。しかし、実際にはその後も借り上げの手段はしばしば用いられたのである。