ところで、現にある「職」(社会的位置と役割)を「天命」として受け止めるべきだとの言説から、少なくとも相反する二つの生き方を導き出すことができよう。一方は人生に対する消極的受動的な処し方であり、他方は積極的能動的な処し方である。前者では、「天職」が運命的所与として観念され、誰もが甘受するしかない諦めの論理として「天職」が語られる。ここでは人はそれ以上を望まず「知足安分」たるべきことが、「天職」の名のもとに合理化され納得せしめられる。後者では、「天職」が自己の果たすべき使命として観念され、更なる行為の発動を促す自己叱咤の論理として「天職」が語られる。ここでは支配層が社会的エリートとして自らの行政的責務の自覚と遂行を促すものとして「天職」が観念される。乳井が「武門天命の職」を問題とするのはこの後者の意味においてである。
乳井によれば、「農」は農業生産物を産出するのが、「工」は手工業品を作りだすのが、「商」はそれらの物資を流通させるのが「天命職」である。「三民」が職務に精励し、「功」(実績・成果)を立てるからこそ、社会は成り立つ。その報酬が「天禄」である。このように「三民」はそれぞれに「天命ノ職」を尽くし、天地の化育に参与している。しかるに武士ひとり「職命の功微塵もなくして禄を得て」いるようでは、「民ニ養ワルルト云フ者」でしかない。そのようなことがあってはならない。軍学、弓馬、刀鎗の秘術に巧み手で、あるいは茶の湯、俳諧等の嗜(たしな)みに通じるをもって、「武道ニ足レリ」と心得る者もあるが、「是レ形ハ士人ニシテ実ハ遊民」である。
それでは一体「武門天命ノ職」とは何なのか。乳井は「弓矢ノ道」は「君道」を開き、「君徳」を農工商の「三民」に蒙らしめ、三民の生業を安らかしめ、国家を富ましむことにある、という。乳井によれば、国家(=藩)の治安と経済活動を含めた広い意味での国家行政に責任を負うことが「武門天命ノ職」であった。彼は武士をどこまでも行政官僚としてとらえ、その自覚を促していこうとするのである。このような武士の存在規定には、彼が日ごろ「吾が素行夫子」と敬慕した山鹿素行の考え方が反映されていよう。素行は、元来戦闘員であった武士の徳川泰平社会の中での存在理由を問い、血生臭い存在の武士を「三民」の師範たるべき士君子としてとらえ直した。つまり素行は武士を倫理的指導者として把握するのである。しかし乳井の場合は、それよりも一層現実的な「国家を富ましむ」という、経世的観点から士の職分が説かれていることに留意しておきたい。時代はもはや、武士が財政的知識に疎く、経済的行為に恬淡(てんたん)であることを美徳とするのを許さなくなってきたのである。
藩財政の完全な破綻とそれに追い打ちをかけるかのように、津軽地方特有の周期的に襲来する冷害が士・庶を問わず人々を悩ませた。とりわけ宝暦五年の異常気象による東北一帯を襲った大凶作は、領内に壊滅的な打撃を与え、大飢饉に見舞われた。
こうした津軽領の現状を念頭におけば、『志学幼弁』での次の乳井の発言は甚だ現実味が増してくる。『志学幼弁』は宝暦改革挫折後の謹慎処分中に著されたものではあるが、改革に臨んだ乳井の胸中を推し量ることができる。
今ノ人臣ハ務メヲ知ラズ。務メヲ知ラザルユヘニ、心ハ忠ヲ思ヘドモ、見ナガラ国家ノ困窮ヲ救フコト能ハズ。
国家(藩)が困窮に及ぶのは群臣がその職務を知らないからである。その「職務」とは何か。「国家ノ困窮」をみては、我こそはと「進ミ出テ是ヲ救ハント励ム心」で国に挺身(ていしん)することである。そうあるべきなのに当節の武士のありさまはどうか。「危ナキ所」は人に譲り、「難キ所」は辞退し、大任を仰せつかれば「不肖愚昧(ふしょうぐまい)」といい立て、何ごとも人の後に従って、ただ「己レ一身ヲ大事」として、「国家ノ危亡ヲ大事」としないで、これこそ「聖教遜譲(せいきょうけんじょう)ノ至リ」と決め込んでいる。乳井は、何事も「無事安穏」をと引きこもり保身を願う生き方を、武士の「職分」を忘れた者として最も嫌悪した。自ら踏み込んで「危難」に立ち向かう「英気」を喪失し、責任を問われることを恐れて、ただ「命ぜられたる職役を格式に合せるのみ」(『五蟲論(ごちゅうろん)』)で事足れりとする小役人根性を唾棄(だき)した。乳井の生き方は、「民ヲ安ンズベキ事ナラバ」たとえ危険を冒しても、勇気と決断をもって現実に「踏込み深入り」し、それを「押こなし乗りつけよ」(「徂徠先生答問書」)と説いた徂徠の言葉を想起させる。