第三の復興の画期は享和年間(一八〇一~一八〇三)以後に求められる。在宅制度は寛政十年(一七九八)五月に廃止され、藩士も弘前に引き揚げるが、依然荒廃したままの田畑は残されていた。むろん、その間開発がストップしたのでなく、寛政十一年からの四年間で、石高にして四七三八石相当の田畑が開発されている(「覚」国史津)。しかし、政策的な面でいうと、享和三年(一八〇三)がひとつの転換の年である。すなわち、『記類』下によると、前年の十月三日に九代藩主津軽寧親は家老喜多村監物らを伴って木造新田を巡見し、廃田復興が思うように進まない現状を憂えて「荒蕪地が多いのは領主の恥」とし、さらに人力を尽くして荒田の復興を進めるべきことと、新田開発のみならず古田(こでん)の再開発がおろそかにならないよう指示を出したという。これを受けて、まず「御郡内開発御用掛」に藤田権左衛門が任じられ、翌享和三年正月二十八日に、家老喜多村監物など御用人・郡奉行から構成される開発方御用掛の諸役人が任命された。藩庁内に再び開発担当の役職を置くことで、廃田復興策を強化しようとしたものである。寧親自身も、文化三年(一八〇六)、九年、十一年とたびたび領内を視察し、自ら復興に強く取り込む姿勢をみせた。