厄介視される預手形

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一方、預手形の流通も藩の思惑どおりにはいかなかった。やはり正金銭同様には流通されず、藩はしばしば同様に取り扱うように触れを出しているが、貫徹することはなかった「国日記」によると、正金銭同様の扱いとするという命令を出したのが天保八年九月二十八日だが、十一月四日には早くも手形売買の値段が下がってきていて、また、安値で買い占めする者がいる状態が述べられており、安値に扱うのは法令の趣旨に反するので、決してそのようなことがないよう命じている(資料近世2No.一二八)。十一月八日条では、正金銭でのみしか売買をしない例、端数がないといって受け取りを拒否する例など挙げられ、もしそのような者がいればきつく究すると述べている(同前No.一三一)。さらに、預かり手形が正金銭の五割や七割の値段でしか流通しない例も挙げられ、相場の違いを利用して一儲けしようとする輩も存在したらしい。
 やはり、預手形の信用は薄く、一般の商人たちは受け取りを嫌がったのである。同じ品物を預手形の場合には値で販売した商人を処分した例、さらに些細なことでは、預手形の客には「御定」の大きさよりも小さい豆腐を売って処分された豆腐商人の例などが「国日記」に載っている。この商人は正金銭の客には逆に大振りの豆腐を渡していた。米や大豆・油など原則的に手形でしか購入が認められていないものは物価が騰し、藩庁でも公定価格を上げざるをえず、領内経済の混乱を招いた。
 預手形は支藩の津軽黒石藩でも通用させた。しかし、通用しがたいのは本藩と同じで、黒石領に魚類が多く入り込むのに業をにやした藩庁は、預手形を使用しない現金での取り引きがその原因として、手形を通用させない限りは、米穀はもちろん何の品でも弘前領からは販売しないし、黒石領からは買わないと黒石役人に通告した(「国日記」天保九年一月二十八日条)。
 さらに現存する預手形は写真からもわかるように筆書きの額面に印を押した単純なもので、偽造が容易なものであった。十月二十九日には、預手形の贋板木(にせいたぎ)を作った侍が入牢の処分を受けているし、南部領でも偽札が出回り、これにかかわった南部領弘前の男二人が入牢となっている(資料近世2No.一二九)。そもそも、米穀購入の現金の代わりといいながら、換金の期日、手段などについて詳細な取り決めもなかった。
 このような中、天保九年四月についに預手形は流通を停止される(同前No.一三六)。わずか半年ほどの命であった。目付から出された触れは、正金銭との引き替えについては追って指令することとしている。しかし、先述のように米穀が思うように買い集められず、肝心の現金化が進まなかったので、実際に交換した形跡はない。文字どおり空手形に終わったのである。手形の停止と相前後して、責任者の田中勝衛と、同役の三浦健蔵は責任を取らせられて罷免、処分された(同前No.一三五)。表向きは彼らの私利私欲を理由にしているが、実際は藩の経済政策の失敗を二人に転嫁したものといわざるをえない。

図191.預手形流通停止の国日記記事
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