宝暦の標符と異なり、預手形の発行に当たっては、「御元方御用達」として任じられた城下の主要な御用達商人に請け負わせる形になっていた。発行主体は「北御蔵拼頭(からかき(からげ)) 竹内勘六」「亀甲御蔵拼頭 宮崎八十吉」「石渡御蔵拼頭 宮崎新太郎」の三人である。手形の額面にも、藩が直接関与する文言はなく、御元方御用達の一人、宮崎八十吉(やそきち)の署名と押印があることから、宮崎札(みやざきふだ)とも称される。
この違いについては、標符失敗の教訓から藩が前面に立たず、富裕な御用達商人の保証する預手形という体裁をとって信用を維持し、領内の金融の円滑化を図ろうとしたものと考えられる。さらに、天保七年十二月の幕府の金銀銭札のほか米札など一連の札遣いを禁止する触書が出されており、藩札と称するのを躊躇したという考えもある(長谷川前掲論文)。しかし、藩の保証の元に正金銭と交換できる建前だったから、実質的な藩札であったとみてよい。預手形の作成も、東長町の商人片谷清次郎本店で行っていたが、その後、御用達商人から藩庁が責任を持って発行して欲しい旨の願書があり、さらに同所が巡見使の宿となるので、年末には旧藩校稽古館の跡地に手形扱い所として移転している(資料近世2No.一三三)。事実上、藩庁の直営事業に近い形であった。もっとも、最後まで御用達商人の発行であるという建前を崩すことはなかった。
なぜ宮崎が手形の発行者になったかは明確でないが、宮崎は預手形失敗の責任について何も追求されていない。いわば単なる名義人であり、実際の発行と流通の責任は藩にあったことの証拠である。なお、宮崎八十吉・竹内勘六が藩の御用達を解かれるのは同年の八月十八日である。
最後に預手形失敗の影響であるが、これは意外に少なかったといわれる。発行数が少なかったこと、通用期間が短かったこと、使用したのが主として藩士層が中心であったこと、これらの点から、領内の経済・流通に及ぼした影響は限定的なものにとどまったのである。