安政六年(一八五九)、幕府は従来蝦夷地の警衛に当たっていた津軽弘前・盛岡・仙台・秋田の各藩に、会津・庄内両藩を加えて、警衛の任に当たらせるとともに、東西蝦夷地を分割してこれら諸藩に与えた。分領は、幕府が蝦夷地出兵諸藩に対して軍役負担を強いたことへの見返りとする見方もあるが(『松前町史』通説編一下 一九八八年 松前町刊)、安政六年七月の対露交渉の場で、カラフトの全面的領有を主張するロシア側から、箱館奉行の力では、とても全蝦夷地の警衛は行き届くはずがないと指摘された幕府が、全蝦夷地に幕藩制国家の軍事力を導入し、同地も国家内の一部だと宣言したことを意味するという考えもできる(金森正也『秋田藩の政治と社会』一九九二年 無明舎出版刊)。