恩を仇で返し殺害・盗み

43 ~ 44 / 767ページ
弘前城下松森町生まれの無宿(むしゅく)およが、以前に世話になった富田町の十兵衛の家を訪ねたところ、あいにく十兵衛が不在だったので、息子の首を締めて殺し、家財を盗んだ。その後彼女は入牢となって取り調べを受け、取上の御仕置場で御馬廻の原子次左衛門から獄門を申し渡された(同前天明六年閏十月二十六日条、資料近世1八七九~八八〇頁)。
 これは恩を仇で返した、人間にあるまじき行為として糾弾されたものであろう。「安永律」の第六項「盗賊之者御仕置」の中の「一、盗ニ入其家之者ニ疵付殺害候者ハ、引廻之上獄門」の規定そのままの適である。
 獄門は首をはねた後に、その首を獄門台の上に三日間さらす刑である。幕府の獄門台は栂(つが)の木を使し、その寸法は首掛けの長さ約一・二メートル、幅三〇センチメートル弱、厚さ約六センチメートル、足約一二センチメートル角、長さ約一・八メートルのうち土の中へ約六〇センチメートル埋める。板の裏から五寸釘を二本並べて打ち出し、これを首に刺した。首の切り口と回りには土を塗って固定する。獄門台の右側に、姓名・生国・年齢・罪状などを書いた捨札(すてふだ)を、左側には引き廻しに使った幟(のぼり)を立てて置く。獄門の期間は普通三日二夜と定められ、番小屋に詰める番人は九人で、上番人として矢の者六人、下番人として非人三人の成であった(前掲『拷問刑罰史』、笹間良彦『図説江戸の司法警察事典』一九八〇年 柏書房刊)。

図9.獄門首の様子

 津軽領では取上の御仕置場に設置された獄門台は、「大釘一本と科人(とがにん)が背負う木札(きふだ)一枚、木舞(こまい)一本、大板付釘三本が必要であると町奉行が申し出てきたので、すぐ準備して渡すよう勘定奉行へ申し付ける」(「国日記」享保六年九月六日条)とみえ、幕府のものより簡略であった。出崎(でさき)村(現西津軽郡木造町兼館)端に設けられた獄門台は「獄門台というほどのものではないが、杭を三本立てて、その上に首を掛けるように」(同前元禄八年十二月十四日条)とあり、さらに粗末なものであった。獄門台にさらす期間は幕府と同様に三日二夜であるが、その番人は取上の御仕置場には、右の享保六年(一七二一)九月六日条によれば、これまで取上村(現市内取上・三岳町・北園・学園町・松原・清原)から出していたのを乞食に代え、昼夜交代で二人ずつ勤めさせることにした。出崎村端では、元禄八年(一六九五)十二月十四日条によって村人が三人交代であったことが知られる。