飢えた者たちは施行小屋にじっとしているわけではなかった。「国日記」によれば、小屋から出た一六人は城下の町々で悪事を働いたので(具体的な行為は不明。城下・周辺の農村での犯罪は、本節一(二)参照)、縄で縛られ小屋へ引き戻されてきた。そこで彼らは当分の間、別の小屋へ収容され、番人が見張りをすることになったが、すぐ悪事を許すわけにはいかず、後になって詫びを申し出た者は釈放するよう藩から指示されている。また釈放されて小屋から出た大勢の者が、城下の商人の店に立ち寄り、商売物を奪ったり、土手町(どてまち)付近の裏通りや楮町に住む人々の囲いの中に夜中に入り込み、野菜や雑穀などを盜んだりしている。小屋から外出中の者たちに対する取り締まりは乞食手の扱いであったが、数十人、百人にもなったら乞食手による統制がきかず、大組諸手足軽(おおくみしょてあしがる)の内から一三、四人をいつでも派遣できるよう警備態勢を強化しているほどであった(同前天明三年十月十九日条、前掲『飢饉の社会史』)。
翌年になっても農村や港町では放火が多く、城下では藩士・町人および寺社の蔵へ盗賊が侵入するのが目立ち、飢饉によって町に住む人々の数も減ったので、火の用心の見回りにも支障を来し、何か事が起こった際には、すぐ対応できかねる状態に陥っていたのである。そのため藩では、藩士の諸支配・諸組に対し不寝番を置き、町人町へも出かけて夜中の怪しい者の往来取り締まり、放火犯への警戒、火の用心の見回りなど行うよう命じているのである(「国日記」天明四年閏正月一日条)。