宝暦五年に設置された塵芥捨場の一つに御徒町川端の川欠けの所がある。ここの利用状況をみると、『御用格』同年八月二十四日条には、ここにきちんと捨てるよう高札(こうさつ)が立っているにもかかわらず、正確に捨てずにその近辺に塵芥が散乱している、今後は指定された場所に正しく捨てるように、と命じられている。
城下の南にある南溜池(みなみためいけ)には塵芥を捨てないよう、宝永三年(一七〇六)以来再三にわたって触書が出されているが、効果は薄かったようで、塵芥の回収作業に多数の人夫が動員されている(第五章第三節六参照)。
天明八年(一七八八)十月には、城下の北に位置する神明宮(現市内東城北二丁目)への通りを西から東へ横断して流れる大久保堰(おおくぼぜき)の川沿いに、近くに住む藩士や町人などが塵芥を捨てたため、川の水が流れにくくなっている。ここに塵芥を捨てることを禁止するという触が出されている(前掲『御用格』天明八年十月十六日条)。
図18.南溜池付近の塵芥捨場
「国日記」天保六年(一八三五)六月九日条によれば、御徒町の橋の下前後に塵芥を捨てることが禁止されているにもかかわらず捨てている。禁止の高札を立ててあったが、何者かが持って行ったのかなくなっている。今後ここに塵芥を捨てた者があったならば厳罰に処するという触が出ている。このような触はたびたび出されており、城下に指定された塵芥捨場に正しく捨てることが守られていなかったのである。
塵芥捨場の位置が知られる記録は少ないが、塵芥捨場は城下を流れる岩木(いわき)川・土淵(つちぶち)川のほとりか、近くの道路わきに多く設置され、城下全体から考えると、地域的なバランスがとれているとはいえないようである。しかも塵芥は指定された場所に正しく捨てられず、近くに散乱しており、また指定場所以外に、さまざまな場所に捨てられているのが実態であった。これらの塵芥はどのように処理されたのか記録がなく不明である。
また塵芥捨場から遠い所に住んでいる人々は、塵芥をどのように処理したのであろうか。
「国日記」によれば、江戸時代を通じて、大雨により岩木川・土淵川などがしばしば氾濫しているのであるから、塵芥はその際に下流へと流されていったものであろうと推定されよう。