農民意識の変化

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晴雨日記」(別名「万物変易誌(ばんぶつへんいし)」 弘図八)は、大光寺組杉館村(現南津軽郡平賀(ひらか)町)の上層農民であった常治家が天保十五年(一八四四)から明治五年(一八七二)まで、村に起きた出来事や近隣の風評、米価、天候などを書き綴った日記である。おおむね記述は簡略であるが、時に重大な関心を払ったことについては詳しく事情を書いている。本項では慶応三年(一八六七)の日記(資料近世2No.四八七)によりながら幕末期の農民意識をみることとする。

図43.晴雨日記
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 この年の三月二十日、館山村(現平賀町館山)の庄屋弥三郎が他出差留(たしゅつさしとめ)となり、同村の弥九郎・辰・左之(さの)の三人が腰縄付のうえ、親類預けの処分を申し渡された。罪は昨年この三人が福村(現市内福村)の者と鮭漁(さけりょう)のことで紛争となり、福村の者の網などを取り上げ、庄屋弥三郎がそれを預かったことが裁きによって違法とされたことにあった。事件の処理のため二月十七日に弘前から鷹匠六人が役人として来ていたが、彼らが指示することには庄屋弥三郎に網を返す旨の約文を書けという。ところが弥三郎は文章に自信がなかったのか、仮名でも良いかと役人に聞いたところ、それでもいいという。さらに弥三郎は仮名でも書けないといったところ、大声でこの馬鹿と怒鳴られてしまった。普通ならばここで恐れ入ってしまうのであろうが、弥三郎はどうせ自分は馬鹿なのだから、馬鹿に事はないはずだと、捨てぜりふを吐いてその場を立ち去ろうとした。そこでこの態度に激怒した鷹匠のひとりがやにわに抜刀し、弥三郎の背中や胸を二・三度強打した。それをみていた村人が刀を取り押さえようとして割って入ったが、手のひらを二・三寸も切ってしまい、弥三郎は殺されると叫び出すし、村人は棒を手に持って駆けつけるし、大変な騒ぎになってしまった。
 どうにか事はそのくらいで済み、鷹匠たちも帰っていったが、反抗した弥三郎らに有利な裁きが出るわけがなかった。それで他出差留などの処分になったのであるが、弥三郎の態度には、たとえ相手が鷹匠という低い身分の者であっても、藩の役人に対して屈するといった心根(こころね)は少しもみられない。鮭漁についても非は福村側にあると思っていたのかもしれない。いずれにせよ、武士や役人の前でひたすら平伏する農民の姿はここにはない。
 町方でも在方でも藩体制のほころびは目にみえ、耳に聞こえる形で明らかになっていた。町や村のお堂には正体不明の僧体の者が寝泊まりし、怪しげな仲間が出入りして博奕(ばくち)を打っている。町家でこれまでにない神が祀られるのも珍しくはなく、口寄せやお告げが大変な評判となっている。各地で放火が起こり、犯人が身近な者と噂され、夜にはうかつに出歩くこともできない。楽しいはずの祭りや盆踊りでは、傍若無人な若者が男女を問わず乱暴してくる。物価は日に日に高くなるばかりなのに政治向きは何もしてくれない。そればかりかわずかな楽しみの遊山やお洒落にも細かく口出しばかりしてくる。
 このような世相では新しい世の中を庶民が熱望したのも無理からぬことであった。人々は世直し一揆のように自分たちの主張を掲げて争ったわけではないが、そこに至る導火線は十分にくすぶっており、旧体制を突き破るエネルギーを蓄えていたのである。