庄内征討応援命令

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しかし、新政府は大きな不安要素である旧幕府陣営を一掃すべく、行動を推し進めていた。四月六日、秋田藩に庄内(鶴岡)藩征討命令が出されたが、弘前藩も決して無関係ではいられなかった。同日、西館宇膳は、仙台滞陣中の奥羽鎮撫総督九条道孝から庄内藩征討応援命令を受け取ったのである(資料近世2No.五二二)。そこで西館は、早速、仙台出張中の秋田藩士川井小六・岡内之丞と話し合いを持った。
 翌七日には、討庄出兵について、秋田藩が総督府へ質問状を提出した。内容は、庄内藩の罪状確認であるが、これについては弘前藩も承知のうえのことであったろう。会津征討ならわかるが、庄内征討の理由はこの時期、勤皇色の強い秋田藩でさえ理解していなかったのである。その質問状の内容と回答は次のとおりである(『弘前藩記事』一)。
 まず、庄内征討を命じられたことについて、既に一月十七日に仙台藩の会津征討に対する応援命令を出されており、この二重の命令にどのように対処すべきかとの問いに、討会応援は不要であるとの答えが返された。
 次の問いは、会津征討の際には、その罪状が明らかにされたのだが、今回は不明であり、あらためて庄内藩の罪状を確認したいというものであった。鳥羽・伏見の戦い後の一月十日に発表された朝敵諸藩の中にも庄内藩の名は挙げられておらず、出兵するには是非とも確認しておかなければならないことであった。答えは、先刻渡したため省略するということだったが、「戊辰年間旧藩記事」第二(国史津)にある附け札には、その内容が引されている。それによると、庄内藩の罪状は、徳川慶喜の恢復をいまだ主張していること、なおかつ、同藩が関東見廻役を勤めていた際、根拠のない嫌疑で「諸藩の邸内へ砲撃し、焼き払ったこと等の事件」に対する罪状であるということであった。この事件は、慶応三年十二月二十五日に起こった庄内藩による薩摩藩邸砲撃事件のことである。当時、薩摩藩は倒幕計画の一環として関東周辺に混乱をもたらしていた。さらに庄内藩屯所への発砲事件などがあり、関東見廻役に任じられていた庄内藩江戸薩摩藩邸砲撃を実行したのであった。この時の事件に対する罪状というわけである。
 もう一つの問いは、庄内藩が謝罪降伏した際の措置についてであった。これに対しては、開城して降伏することがまずもっての条件として挙げられた。そして、最後に天童藩・上ノ山藩が天童口よりの攻撃を命じられたことが知らされたのである。
 新政府に積極的な態度を示していた秋田藩も、庄内藩の罪状の不透明さにためらいをみせたのであるから、弘前藩においてはなおさらである。しかし、政府軍の勢いは依然として続いていた。