洋式武器の種類

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戊辰戦争は日本が体験した最初の近代戦であったが、そのため従来の軍制にはみられなかったさまざまな特色を帯びていた。まず、封建軍隊において主君は原則として戦費負担を考慮する必要はなかった。家禄とは戦費の先渡しであり、有事の際に藩士は無償で参陣する義務を負っていた。ところが、幕末の蝦夷地警備以来、長期かつ恒常的な滞陣は藩士の家計を圧迫し、藩が武器・兵糧(ひょうろう)から寝具に至るまで兵站(へいたん)のすべてを支出しなければ、軍事力そのものが機能しえない状態となっていた。また、その武器といっても新たに洋式小銃を購入しようとすれば、前に述べたように一挺一〇両以上もしたのであり、とても個人で大量に備えられるものではなかった。そのため、武器購入や兵站は藩が巨費を投じて準備しなければならなかったが、ここでは戊辰戦争期に使された洋式銃器について説明しておきたい。
 戊辰戦争が勃発した一九世紀中期、世界史的規模でみると、この時期すでにアメリカでは南北戦争(一八六〇~六五年)が終結しており、ロシア・イギリス・フランス・トルコ諸国が戦ったクリミア戦争(一八五三~五六年)もそれ以前に和平が成立し、大きな戦争は日本を除いてみられなかった。よって、国際的武器商人は日本に殺到し、だぶついていた新式銃器を売り込んでいた。戊辰戦争ではこの洋式銃器が大量に使され、日本はさながら新式銃器の実験場の感があった。もちろん、弘前藩が購入した武器は横浜や箱館を経由したものであったが、具体的にそれらにはどのような種類があったのであろうか。
 まず、小銃で一番広く使われたのがゲベール銃である。ゲベールとはオランダ語で小銃の意で、天保二年(一八三一)に高島秋帆(しゅうはん)が大量に輸入してから日本では小銃の代名詞となった。弾丸は球形で先込(さきご)め式であり、銃身は現在の銃器に施されているらせん状の溝がない滑腔(かっくう)式であったため、命中精度が悪く、有効射程は約九五〇メートルしかなかったが、火縄銃と異なり銃座が大きいため、伏打ちなど低い姿勢からの攻撃が可能であった。銃身はリング状の金具で銃床(じゅうしょう)に固定されており、リングの数から二ツバンド、三ツバンドゲベールと呼ばれた。口径は一七・五ミリメートル、全長約一五〇〇ミリメートルのこの銃は、日本各地で盛んに倣製(ほうせい)され、元治年間(一八六三~六四)には国産で十分間に合うまでになっていた(『国史大辞典』三)。
 次に多されたのがミニエー銃である。この銃を考案したのはフランスの陸軍大尉M・ミニエーであり、まだ先込め式ではあったが、ミニエー銃ゲベール銃と決定的に異なる点は、弾丸が椎(しい)の実型をしており、銃身に施されたライフリングによって回転しながら発射されるため、命中精度が飛躍的に向上した点である。従来の滑腔銃では四〇〇ヤード(約三六六メートル)離れると命中率が四・五パーセントに低下したのに対し、ミニエー銃の的中率は五二・五パーセントにものぼった(岩堂憲人『世界銃砲史』上 一九九五年 国書刊行会刊)。弘前藩兵にも明治元年の後半になると、ほぼこの銃が行き渡るようになり、ゲベール銃農兵隊などの補助戦力でしか使われなくなった。
 続いて、大砲は野戦において大きな威力を発したが、種類的には実に多様であり、主なもののみを紹介する。まず、最も広くいられたものがカノン(加農)砲であろう。この大砲は砲身が長くて弾道が低いが、射程が長く、六~一二ポンド砲(ポンドとは大砲の弾の重量で、一ポンドは四五四グラム)が野戦として活躍した。それ以上となると重砲に属し、この時期の弘前藩ではまず見当たらない。また、臼(きゅう)砲といって、現在の迫撃砲(はくげきほう)のように砲身が短いものも使されたが、砲弾はまだ球状が多く、先込め式のため一分間に二発程度しか発射できなかった(明地力『世界兵器発達史』一九七五年 朝日ソノラマ刊)。
 これらの他にも小銃ではエンフィールド銃・スナイダー銃やピストルなどの名も史料にはみえるが、数は少なかったようである。また、大砲でも木砲(もくほう)といって、砲身に木を使し、ロケット花火のような弾丸を発射して敵を混乱させるもの等、色々な種類の武器が使われたことがわかる。

図53.洋式銃(エンフィールド銃)


図54.木砲