春以来領内外の各地に転戦してきた弘前藩兵は、ようやく東北平定とともに弘前に帰陣し、平和を迎えるかにみえた。ところが、同日に箱館府知事清水谷公考(しみずだにきんなる)から飛報がもたらされた。榎本武揚(たけあき)の旧幕府脱艦隊による箱館襲撃である。こうして藩は休む間もなく臨戦態勢に追い込まれていくが、長期にわたる出兵で兵は疲弊(ひへい)しきっており、郷夫(ごうふ)・夫卒(ぶそつ)(戦隊の雑用役)として徴発された農民たちも同様であった。病気や老齢を理由に帰城する三等銃隊員は後を絶たず、新兵の補充も限界に達していた。図55の第3期(明治元年十月十九日~明治二年六月十二日)の人員はわずかに合計一七五人にすぎず、かろうじて次、三男層から一〇二人が出ているものの、新兵の質的低下は深刻であった。彼らはいずれも年齢不相応に柔弱で、体格が特に弱々しくて、とても出張の御用には耐えられないと報告されている(同前明治二年正月十七日条)。さらに藩はこの時期に若年藩士を対象として、四等銃隊を創設しようとしたが、これは隊員もわずかで、司令士さえ任命されなかった。
藩も兵員補充には苦慮し、再三にわたって病欠者調査と男子調べを実施しているが効果はなかった。そしてついには能役者や学問所の者にまで銃隊訓練を命じているが(同前明治元年十一月二十四日条)、ここまでくると藩兵は封建軍隊としての弱点を明確に示すようになった。つまり、軍事力の拡大を図る時に武士階層だけでは絶対的に不足するのである。その不備を補うために組織されたのが農兵隊や町兵隊、修験(しゅげん)隊などであった。