「弘前藩記事」(弘図八)は主に慶応三年(一八六七)から明治四年(一八七一)の出来事をまとめた、維新期の事情をみるには必須の史料であるが、この中に何例か各地の戦闘で捕虜となり、弘前に送還された庶民の記録が出てくる。たとえば、鳶(とび)の今之助(いまのすけ)は旗持ちとして成田求馬隊に付属して、元年八月、秋田由利郡吉沢村へ先行派遣された。同五日にこの部隊は鶴岡(庄内)藩兵と期せずして遭遇戦を展開し、隊長成田以下一〇人が戦死、一一人が負傷して戊辰戦争初の死傷者を出し、軍事的緊張は一挙に高まった。今之助は混乱する戦場にいて何もすることができず、その場にただうずくまるようにいたが、ふとみると味方の姿は三人しかなく、ともに急いで逃げようとしたが、敵兵に囲まれて藩士成田周吾・豊田音吉とともに生け捕りとなってしまった。彼らはすぐに矢嶋の敵陣へ連行され、いろいろと尋問されたが、職人であった今之助には軍事や政治向きの話はまったくわからず、何を聞かれても答えられなかった。そこで庄内兵も彼を放置し、四日間陣屋の前に縛られて置かれた。それから今之助は四日かけて縄つきのうえ鶴岡城下に連れて行かれ、牢屋に入れられた。今之助としてはまったく生きた心地がしなかったであろうが、庄内藩側も町人一人の命を奪うことまでは考えておらず、五日で牢屋から出し、一ト市町の美濃屋という商人に預けて、籠居(ろうきょ)(軟禁)処分とした。その後、九月十三日にはその処分も解除され、十月二十三日にようやく弘前に帰り着き、すぐに藩に顛末(てんまつ)を届け出たのである(「弘前藩記事」明治元年十月二十四日条)。
また、林崎村(現南津軽郡藤崎町)の嘉七(かしち)と一町田村(現中津軽郡岩木町)の松という郷夫(ごうふ)は、運悪く元年九月二十二日夜から行軍が開始された野辺地攻めの中にいた。同日、馬門(まかど)村(現上北郡野辺地町)の湯小屋という所にさしかかった時、突如銃声が響き、恐怖で度を失った二人は担いでいた弾薬箱と腰の脇差を投げ出し、あわてて檜林の中に隠れた。しばらくそうしているうちに目の前を何度か武士が通り過ぎ、そのたびに二人は身を隠し、ほうほうの体(てい)で山中へ逃れた。やがて夜が明け、嘉七と松は黒石藩平内領の沼館(ぬまだて)村にたどりつき、自分たちは郷夫だからどうか助けてくれと懇願したところ、権兵衛という村人が世話をしてくれて、青森の知り合いまで帰ることができた。そして二十五日にそれぞれ村に帰ったが、親たちからこのままでは敵前逃亡の罪で類は家族にまで及ぶから、戦場に戻ってくれと諭され、二十九日に狩場沢(かりばさわ)村(現上北郡野辺地町)に出頭したところを隊長手塚郡平に引き渡された。藩ではこれを放置すれば士気にかかわると判断し、腰縄つきで小湊村(現東津軽郡平内町)の弥助という農民にお預け処分としている(同前明治元年十月九日条)。このように、庶民の中にはまさに生命の危機にさらされ、極限の恐怖を体験した者も存在したのである。