移管を受けた大蔵省では大蔵大丞(だいじょう)渡辺清が
青森県権令
菱田重禧(ごんれいひしだしげよし)と相談し、明治四年十二月に旧
藩知事津軽承昭(つぐあきら)に与えられた
家禄をもって一三万九〇九三両余の負債を相殺させようと迫った。承昭はこれを了承せざるをえず、代米四万石を一石三両二分と換算して、五ヵ年賦で償還すべきことと決定した。この際、旧
執政西館融(とおる)・山中逸郎(いつろう)ら重臣一一人が座視しがたしとして、進退伺いを提出したうえで自分たちの
家禄からも負担を願い出たが、これは承昭に止められた(『
津軽承昭公伝』)。こうした経緯の後、明治五年十月に
朝廷から
藩札交換分として金一〇万円が下され、翌六年正月の
藩札引換令(ひきかえれい)を皮切りとして、
青森や弘前などで一〇万五五〇一円五一銭六厘が兌換された。そして負うべき残金は、明治七年(一八七四)十二月には
旧藩主禄税徴収令の実施に伴って、
家禄の九割が官納となったため、最初の五ヵ年賦計画の遂行ができなくなって半額が免除され、残りの半額も五〇ヵ年賦と大幅に緩和された。そして、明治十年(一八七七)三月には旧
藩主家禄が
公債渡しとなったのを契機に全額免除されることとなった。つまり、旧弘前藩の
藩札処理は
藩主津軽家の
家禄を抵当としながらも、実際には
新政府からの
交付金に依拠して行われたのである。
図70.弘前藩の借入金返済計画案