箱館戦争の終結

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五月十二日より、甲鉄から五稜郭に照準を合わせた激しい砲撃が行われ、政府軍は降伏勧告の交渉をはじめた。榎本武揚はこれに応じず、五稜郭では頑強な抵抗が続いたが、各地の残余兵には降伏に傾く者がしだいに増えてきていた。十六日、千代ヶ岡で降伏を拒絶した旧浦賀奉行(うらがぶぎょう)組与力(よりき)中島三郎助隊への攻撃を開始し、敗走させたが、これが箱館戦争最後の戦闘となる。
 十八日、榎本ら四人が五稜郭を出て降伏し、ここに全戊辰戦争が幕を閉じた。青森口総督清水谷公考箱館へ戻り、降伏した旧幕府軍のうち六一〇人は弘前藩へしばらく預けられることとなった。よって、六月二十一日に彼らを乗せたアルビヨン艦が青森へ入港している。また、二十二日には榎本らが熊本藩兵に護送されヤンシー艦で青森へ入港し、二十六日東京に向けて陸行で護送された(資料近世2No.五六九)。なお、箱館戦争後も弘前藩は、十月二十五日、箱館へ出航させるまで新撰組等の降伏人を預かっている。

図72.清水谷公考感状

 弘前藩士は総督府守衛に当たった者を除き、五月二十四日から続々と帰国凱旋を果たした。永く支援基地として多大な労苦を担わされていた青森からも、同月中に官軍諸隊の引き揚げが開始された。六月には招魂祭も催され、ようやく平穏の日々が訪れようとしていた。
 しかし、戦争が終決し、あらゆる面で多大な犠牲を払った弘前藩は勤皇の名誉を受けることはできても、問題は山積みであった。その代表が膨張した軍事力の解体と藩治職制である。再び大幅な藩政改革が求められる状況となっていた。既に中央からは明治元年中に藩政改革の指示が出されていたが、それは新政府のもとで藩体制を均質化させる目的のものであった。ただし、明治三年六月に新政府の強力な指導が入るまで弘前藩のそれは遅々としており、実質的な藩体制の終焉は明治四年の廃藩置県(はいはんちけん)まで待たなければならないのである。