帰田法の実施に当たり、藩は二八一人の地主を耕地買収の対象とし、所持耕地を調査していったが、うち四六人が分与地を献納している。その献田面積は合計六三二町歩余で、これは藩が準備できた分与地二九四五町歩余の約二一・五パーセントにものぼる。ただ、この献田を帰田法告諭に接した地主らがその趣旨に賛同して供出(きょうしゅつ)したと解釈するのはあまりに単純すぎよう。実は献田はまったく無償であったのではなく、明治三年閏十月二十九日に藩は規則を発し、献田や買収面積の多寡に応じて特定の家業開設許可を与えたのである(資料近世2No.五九六)。その規定では、原則として一〇〇町歩以上買収または三〇町歩以上献田の者へは望みの家業ふたつ、五〇町歩以上買収または一五町歩以上献田の者へは造酒・質屋業のうちひとつ、二五町歩以上買収または五町歩以上献田の者へは染屋・米小売・小売酒屋等の家業のうちひとつを新規に開業してもよいという内容であった。
こうした交換条件のもとに献田した地主・豪農四六人中、三八人が家業認可願いを提出し、それぞれ許可されたのである。その三八人の一覧が表30であるが、一人が居所を特定できないものの、他は全員が在方の豪農である。では、なぜ彼ら豪農は家業新設を求めたかというと、従来、在方にあっては寛政四年(一七九二)の布令により、農事に支障があるとして商売の営業は厳格な取り締まりにあっていたためである。当時、新規家業が認められていたのは弘前・青森・鰺ヶ沢の町場にすぎず、土地を強制的に取り上げられる在方の豪農としてみれば、見返りにより有利な補填(ほてん)を求めるのは当然であった。
表30.帰田法献田地主一覧 |
No. | 氏 名 | 献田面積 | 許可家業 | 地主住所(現在名) |
1 | 鳴海長左衛門 | 50町歩 | 百石酒造 | 黒石市浅瀬石 |
2 | 米田慶助 | 34町歩 | 百石酒造 | 北津軽郡板柳町五林平 |
3 | 阿部健吉 | 30町歩 | 百石酒造 | 五所川原市羽野木沢 |
4 | 石岡菊次郎 | 25町歩 | 百石酒造 | 五所川原市野里 |
5 | 北山彦作 | 25町歩 | 百石酒造 | 黒石市浅瀬石 |
6 | 寺田佐吉 | 20町歩 | 百石酒造 | 五所川原市石岡 |
7 | 葛西勝之丞 | 15町歩 | 百石酒造 | 西津軽郡木造町濁川 |
8 | 一戸房五郎 | 15町歩 | 百石酒造 | 西津軽郡鰺ヶ沢町中村 |
9 | 中村佐兵衛 | 15町歩 | 百石酒造 | 南津軽郡常盤村東光寺 |
10 | 中村佐之吉 | 15町歩 | 百石酒造 | 北津軽郡金木町嘉瀬 |
11 | 高橋善右衛門 | 15町歩 | 百石酒造 | 北津軽郡金木町 |
12 | 次五右衛門 | 15町歩 | 百石酒造 | 五所川原市湊 |
13 | 菊池勘次郎 | 15町歩 | 百石酒造 | 本町(場所不明) |
14 | 平山才吉 | 15町歩 | 百石酒造 | 五所川原市湊 |
15 | 月永長兵衛 | 10町4反 | 百五十石酒造 | 西津軽郡鰺ヶ沢町舞戸 |
16 | 喜太郎 | 19町7反 | 百石酒造 | 南津軽郡平賀町唐竹 |
17 | 長谷川清次郎 | 19町歩 | 百石酒造 | 西津軽郡木造町菰槌 |
18 | 七左衛門 | 2町8反 | 小売酒屋 | 北津軽郡鶴田町亀田 |
19 | 北山長次郎 | 25町歩 | 質屋・味噌家業 | 黒石市浅瀬石 |
20 | 長谷川伝兵衛 | 12町歩余 | 室家業 | 北津軽郡鶴田町中野 |
21 | 重兵衛 | 9町3反 | 醤油醸造 | 西津軽郡岩崎村松神 |
22 | 清兵衛 | 7町歩余 | 醤油醸造 | 南津軽郡尾上町 |
23 | 慶助 | 6町歩余 | 醤油醸造 | 五所川原市喰川 |
24 | 八郎兵衛 | 6町歩余 | 醤油醸造 | 弘前市大久保 |
25 | 市田利助 | 5町歩余 | 醤油醸造 | 西津軽郡木造町 |
26 | 七左衛門 | 5町歩余 | 醤油醸造 | 北津軽郡金木町小田川 |
27 | 鳴海富太郎 | 5町歩 | 荒物屋 | 黒石市浅瀬石 |
28 | 田辺弥右衛門 | 6町歩余 | 木綿屋 | 南津軽郡尾上町 |
29 | 小山内勇吉 | 3町歩 | 染屋 | 南津軽郡平賀町尾崎 |
30 | 清野庄兵衛 | 5町歩 | 室家業 | 南津軽郡尾上町猿賀 |
31 | 孫兵衛 | 6町歩 | 室家業 | 南津軽郡平賀町大袋 |
32 | 半兵衛 | 1町3反 | 染屋 | 南津軽郡尾上町 |
33 | 七兵衛 | 1町歩 | 染屋 | 南津軽郡平賀町平田森 |
34 | 安田喜太郎 | 1町3反 | 蝋燭・鬢付家業 | 北津軽郡板柳町 |
35 | 七兵衛 | 6町歩 | 味噌家業 | 南津軽郡田舎館村枝川 |
36 | 長九郎 | 1町5反 | 染屋 | 南津軽郡浪岡町樽沢 |
37 | 嘉兵衛 | 7町歩余 | 舟手問屋 | 西津軽郡岩崎村大間越 |
38 | 儀八 | 9反3畝 | 舟手問屋・染屋 | 弘前市百田 |
注) | 資料近世2No.605より作成。 |
たとえば、帰田法の項でみた羽野木沢(はのきざわ)村(現五所川原市羽野木沢、同市の東端に位置する)の阿部賢吉(けんきち)家では、同年閏十月に再三にわたって献田願いを藩に提出し、自分の家は五所川原にも青森にも近く、酒を造って商売をするには最適な土地にあること、および、その酒を蝦夷地に売れば大いに藩益にもなることを主張し、最終的には一〇〇石高の酒造家業許可を得ている(坂本壽夫「弘前藩「帰田法」の再考と検証に関する一考察」『市史ひろさき』六)。つまり、民間では当時対蝦夷地交易は巨利を生むと認識されていた。蝦夷地に酒を売るためには、結局は藩が経営を操作する青森商社の販路に乗らねばならず、その意味では在方地主らを広範に商社に取り込める可能性を持っていたのである。そして阿部家のような主張は他の豪農についても同様に認められることであり(『五所川原市史』資料編2下 一九九六年 五所川原市刊)、彼らが得た新規家業の大部分は酒造・醸造業といった、蝦夷地交易の中心的業種であった(表30参照)。
加えて、津軽半島の新田地帯(現西北津軽郡一帯)や古くからの穀倉地帯であった弘前周辺の村々からの物産は、やがて新たに改修されるであろう十三や、蝦夷地への渡航地である三厩(みんまや)・青森などに集荷され、藩の統制下に移出されるという青写真は決して非現実的なことではない。
もちろん、青森商社・帰田法・大規模改修工事といった各施策は開始時期がそれぞれ異なっており、最初から藩が領内流通の再編成をもくろんでいたわけではないであろうが、以上のように概観すると、経過はわかりやすくなる。