「国日記」正徳元年(一七一一)八月二十六日条には、先年(正確な年代は不明)藩士一同に対し木綿の着用を命じたが、このたびは紗綾(さや)(絹織物の一種。表面がなめらかで光沢があり、稲妻・菱垣・卍などの模様を織り出したものが多い)・縮緬(ちりめん)(絹織物の一種。布面に細かな縐(しじら)縮みがある。衣服・帯地・裏地・風呂敷などに用いる)などの着用は役高一〇〇〇石および側用人(そばようにん)(奥向の内政を統轄する役職)に、絹・紬などは三〇〇石以上の者に認めると記され、また三〇〇石以下の妻子は木綿着用とみえ、役高により生地の使用に区別があった。
寛延三年(一七五〇)には、役高三〇〇石以上の藩士および妻子に木綿の着用を奨励している(「国日記」寛延三年八月四日条)。
さらに「国日記」享和三年(一八〇三)七月十二日条(資料近世2No.二〇八)には、次のようにみえる。役高三〇〇石以上、長袴以上の者は木綿の衣服を着用し、羽織袴などは上等な品を用いず、桟留(さんとめ)(桟留鎬の略。印度のサントメから渡来した縞のある綿織物)・川越平(かわごえひら)(埼玉県の川越市付近で初めて作られた絹織りの袴地)などより良いものを使用しないこと、二〇〇石以上、熨斗目以上(御目見以上)は木綿、下着は郡内絹(ぐんないきぬ)(山梨県郡内地方で産出する絹織物)、羽織は紬と木綿、袴は桟留・小倉(京都市右京区の地名であるから、京都産の織物か)で、夏は川越平・郡内平(ぐんないひら)などの使用。帷子(かたびら)(夏に着る麻・木綿・絹などで作った単衣(ひとえ)もの)は奈良縞(奈良地方で産出する奈良晒(ならざらし)の縞物)などより上等品を用いないこと、右以下御目見以上は木綿、下着は絹のみ、袴は小倉木綿、羽織は並木綿、夏はなるべく麻布の使用。帷子は奈良縞などの類を用いること、このような内容を中心とする詳細な規定が存し、殊に木綿が奨励されていることが知られる。
その後「国日記」文化四年(一八〇七)十二月十五日条、同八年九月一日条、文政十年(一八二七)十二月二十八日条などには、享和三年七月十二日条と同じような役高などに応じた生地の使用についての詳細な規定がみられるほかに、すべての藩士が木綿の衣服を着用することを命じられた規定がみえ、木綿着用の徹底化が図られている。
次に着用の規定については「四季衣服定并色々留帳」(弘図津)に左のようにみえている。
着服式
一、四月朔日より五月四日まて 袷
一、五月五日より八月晦日まて 帷子
一、九月朔日より同八日まて 袷
一、九月九日より三月晦日まて 綿入
一、九月朔日より五月四日まて 裏付袴
一、九月十日より三月晦日まて 足袋
但長袴着用之節ハいつニ而も相用得候苦(不脱カ)、(下略)
一、四月朔日より五月四日まて 袷
一、五月五日より八月晦日まて 帷子
一、九月朔日より同八日まて 袷
一、九月九日より三月晦日まて 綿入
一、九月朔日より五月四日まて 裏付袴
一、九月十日より三月晦日まて 足袋
但長袴着用之節ハいつニ而も相用得候苦(不脱カ)、(下略)
これは幕末に出された規定と思われるが(「弘前図書館郷土資料目録」には嘉永元年とみえる)、おそらく江戸時代を通じて、季節により着替えていたことであろう。
最後に女性の服装についてであるが、江戸時代は幕府をはじめとして一般的に、礼服としての打掛(うちかけ)や腰巻(こしまき)は身分の高い女性が着用したものであるが、衣服の主流は小袖(こそで)(狭義には冬期用の絹製の綿入)であり、若い娘は振袖を着ていた(前掲『日本服飾史』)。津軽弘前藩では、藩士の妻や娘の服装については、前述した享和三年(一八〇三)の衣についての規定にもみられるように(資料近世2No.二〇八)、生地は藩士のそれに準じていたようであるが、それ以外にはほとんど不明である。おそらく小袖や振袖で、藩士の場合と同様に、季節によって袷・帷子・綿入などと着替えていたものであろう。
図93.武士の夫人の小袖と打掛