下川原における製陶

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国日記」によると、下川原(現市内桔梗野)に白焼瀬戸(磁器)座が取り立てられたのは天保七年(一八三六)である。同年四月に国産方による設置計画が出され、七月十五日条には、取り立てに当たった山田熊太郎(やまだくまたろう)が当初から入念な対応をし、また労をいとわぬ精勤ぶりを評価された(金二〇〇疋を受けた)ことが記されている。天保八年(一八三七)九月二十二日の、国産御用掛の申し出によると、前述の悪戸焼のところで触れた筑前の陶師五郎七が、この陶座で磁器の制作に当たっている。五郎七は製陶の傍ら、弟子入りした掃除小人の高屋村(現中津軽郡岩木町)甚吉に作陶の指導もしていた。
 下川原瀬戸物師金蔵の子孫である高谷家には、雲龍文の染付(そめつけ)磁器の大花立(はなだて)(高さ約三六センチメートル)が伝えられていて、染付で次の書銘が認められる。「天保九戊戌年三月十四日 白焼瀬戸座初発御奉行釜萢源左衛門(かまやちげんざえもん)為菩提 同産〔座〕取建細工人 瀬戸師五良(ママ)七 同久米次郎・同金蔵 同嘉太良 奉寄附之」。

図148.磁器の大花立 年月日と作陶者銘あり

 「国日記」天保九年(一八三八)三月十五日の、山田熊太郎の申し出によると、釡萢源左衛門は昨夜病死と記述されているので、この花立は少し遅れて焼成されたことになる。天保十年(一八三九)には国産方が廃止になり、国産品(陶器もふくまれる)は郡所勘定所の取り扱いとなる。五郎七による製陶も取り止めになるが、翌天保十一年(一八四〇)には最後の製陶ということで、資金を借り受けて製陶のうえ返済という契約で、焼成を申し出ている。
 当時、下川原では白焼(磁器)、悪戸村では雑焼(日陶器)が主に焼かれていたが、「国日記」嘉永元年(一八四八)六月十一日条によるとこれらの陶磁器は、移入品に押されて売れ行き不振の状態にあったので、瀬戸師金蔵は白焼・雑焼に類する製品の移入差し止めを願い出ている。なお、安政五年(一八五八)十月二十四日条には、江戸から乱引(らんびき)(蘭引〈ランビキ、ポルトガル語に由来している〉酒類・薬種等を蒸留する器具)を悪戸村の瀬戸師に造らせるよう注文が来たところ、悪戸では出来かねるというので下川原の瀬戸師に回している。悪戸はそのころ日雑器が主で、ランビキ等造が複雑なものの製作は手がけていなかったものと思われる。
 「国日記」万延二年(一八六一)二月二十七日条によると、国産瀬戸(この場合磁器)の生産を高める目的で御目見以下留守居支配唐牛吉蔵(かろうじよしぞう)が箱館(現北海道函館市)へ派遣されている(当時、箱館には磁器瀬戸座があった)。吉蔵は永く国益になることを自覚し、いかなる辛苦にも堪え身命にかかわるほどの艱難(かんなん)もいとわず修業を続け、技術を会得して来たいとの申し出をしている。文久二年(一八六二)十月には、石焼瀬戸(磁器)の製陶法について皆伝となり帰藩。その後、箱館瀬戸座から多治見(たじみ)(現岐阜県多治見市)出身の細工人兼吉(かねきち)と絵師幾助(きすけ)夫婦等を呼び寄せている。帰藩後は郡所の費負担で磁器の焼成に取りかかったが、経費増のため一度は中止に追い込まれた。その後、製陶の体制も整い国益の見通しも立ったところで再び焼成が始まり、慶応二年(一八六六)ころまで続けられた。
 製品は陶器もあるが、染付磁器が主体をなしており、神前徳利、大小の徳利、茶碗類、大小の皿、急須、八角鉢などの各種鉢、花立、火入れ、さいころなど多種多様にわたる。磁器は焼きしまりが良く堅手(かたで)で、染付の発色も極めて良い。なお青磁(せいじ)(ごく少量の鉄分を含む釉薬をかけて焼成した磁器で、薄い青緑色や淡黄色を呈している)や瑠璃(るり)釉(酸化コバルトを主体とした釉)磁器および赤絵(酸化鉄で、赤を主調とした釉の上絵付(うわえつけ))も試みられている。文様には山水・花鳥・牡丹・松竹梅など種々あり、貼付(はりつけ)文・彫文・筒描(つつがき)などの技法もみられる。銘には篠制(しのせい)(この地域は篠沢ともいわれた)・下川原・ツガル・ヒロサキ・弘前・金蔵・高屋等の書銘(染付)が認められる。なお、陶石は早瀬野(はやせの)村(現南津軽郡大鰐町早瀬野)の砥倉(とくら)などから採掘されていた。

図149.磁器の神前徳利(文久3年作陶とあるが,高谷家の先祖は妙見様を信仰していた)

 鳩笛で代表される種々多様な下川原土人形は、製陶の傍ら、主に冬期の休窯期間を利して作られたもので、現在なお製作が続けられている。