津軽地方で塗られた漆工品は、いま産地名を冠して「津軽塗」と総称されている。同様に江戸時代、小浜の「稚狭考(わかさこう)」(文化五年〈一八〇八〉)には、「津軽塗」とあるが、弘前藩庁御国日記など津軽弘前藩の史料では「御国塗」と呼ばれたほか京都の「近衛家雑事日記」元文五年(一七四〇)五月九日条、文化元年(一八〇四)十一月十四日条には、「弘前塗」と書かれ、「弘前塗」とか「津軽塗」とは、単に漆器の産地を意味する語として使われていた。
その一方津軽においては、「朱塗」、「黒塗」、「春慶塗」、「蒔絵」、「唐塗」、「霜降塗(しもふりぬり)」、「貫入塗(かんにゅうぬり)」、「紋虫喰塗(もんむしくいぬり)」などと漆器の色彩、加飾法、塗り技法によって区別していた。しかし、『明治期万国博覧会美術品出品目録』(横溝廣子著 一九九四年 中央公論美術出版刊)には、明治六年(一八七三)五月から開催されたウィーン万国博覧会に青森県が出品した漆器を、「津軽唐塗文庫」「津軽唐塗六角形提重」と名付け、明治九年(一八七六)のフィラデルフィアで開催された万国博覧会に青海源兵衛は香盆、香炉台、提重などを出品し、「津軽韓塗(からぬり)漆器」と呼んで、産地名に技法名を加えて呼ぶようになった。
明治十年(一八七七)十二月、黒川真頼は、フランス万国博覧会にわが国の工芸品を出品することを目的に、工芸の起源や興隆をまとめ『工芸志料』として出版した。この中に津軽塗の項があり、このころから津軽においても、津軽で塗られた漆器類を単に「津軽塗」と呼ぶようになった。