お抱え塗師青海源兵衛の弟子のなかに成田伊太郎(文政十一年~明治二十二年・一八二八~一八八九)がいた。伊太郎は、明治維新で廃絶の危機に立たされた津軽の変わり塗技法を後世に残した津軽塗の偉人である。
天保十一年(一八四〇)、伊太郎は、青海源兵衛の弟子となり、一〇余年の修業で秘伝の技法も習得してお抱え塗師となることができた。やがて明治に入ると藩からの仕事が絶えたが、伊太郎は弟子とともに漆器の製作を続け、これまで一子相伝の秘法とされてきた青海波塗や変わり塗技法を弟子たちに教えた。大正四年(一九一五)九月、弟子やその弟子たちは、伊太郎の功績をたたえ、苦提寺の赤倉山宝泉院(現市内西茂森二丁目)に、手板五〇枚を並べ、額にして贈った。この額は、昭和五十四年(一九七九)火災で焼失したが、手板は以前に調査され、記録されていた(前掲『津軽塗』)。
五〇枚の手板のうち四三枚が唐塗で塗られて、魚子塗(ななこぬり)二枚、ほかに錦塗、青海波塗、たばこ塗、櫛目塗、紋紗塗が各一枚ある。このことから細い筆描きによる色漆の文様が姿を消していることがわかる。しかし、津軽の江戸時代の変わり塗技法の多くは、明治維新で絶えることがなかった。それは伊太郎の弟子であった成田久吾、小林元太郎、須郷篤之助、斎藤彦吉、森山柾吉、相馬佐吉、加瀬亮逸、奈良丹次郎、近藤彦一、田中正雄、小山金五郎、田中三郎ほか一二名の努力によるものであり、この後も、さらにこれらの弟子たちによって津軽塗産業が支えられることになる。
明治初期の津軽の漆工芸は、『温知図録(おんちずろく)』(一九九七年 東京国立博物館刊)からも知ることができる。この図録は、明治四年から明治十八年までの工芸の図案集であり、明治初期の政府が、廃藩以降に落ち込んだ産業を復興させるための措置として、工芸品の輸出奨励と海外で開催される博覧会へ積極的に参加する行政指導を行ったときの記録でもある。津軽塗は、図録のなかに二四点収録されてあり、源兵衛の作品が一四点含まれている。
明治八年三月三十一日、博覧会事務局に採用され『温知図録』に関わった中島仰山が考案した韓塗(からぬり)家具を青海源兵衛は塗り、明治九年(一八七六)、フィラデルフィア万国博覧会へ出品し、銀賞を受けた。さらに明治十一年のパリ万国博覧会には小田桐勇馬とともに津軽塗書棚を出品し、二人とも受賞した。お抱え塗師青海源兵衛は、博覧会に出品するというかたちで新体制に調和していった。
地元では士族の山田皓蔵が(天保九年~大正七年・一八三八~一九一八)、明治七年(一八七四)三月、鎌田貞顕、須藤良彦、古平一実らの援助を得て漆器製造をはじめ、同十三年、伊藤正良と図って漆器樹産合資会社を本町に設立し、手工芸を産業化する新しい体制をつくった(津軽塗漆器産業診断勧告書 一九五三年 青森県商工部刊)。
津軽の漆工芸は、このように多くの漆工関係者たちの努力と工夫によって政治・経済の大変革を乗り越え、天然漆を使った工芸品を作り、新しい需要者に対応して展開を始めた。