津梁院

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常福寺本祐は、藩の所有する上野の菜園に隠居所を建て、信枚の法号により津梁院(天台宗、現東京都台東区)とした。信義が明暦元年(一六五五)に江戸で死去すると、ここに葬られた。信政は天和元年(一六八一)に信枚の五輪塔と遺骨を常福寺から改葬した(篠村正雄「浅草常福寺口上書と御屋舗江常福寺御由緒略覚」『市史ひろさき』三、同「津梁院境内廟所図」『市史ひろさき』四)。これより江戸における菩提寺津梁院になり、藩主・正室は一〇代信順の正室を除いてここに葬られた。津軽黒石家も同院を菩提寺とした。
 信枚はそれまでの曹洞宗から天台宗に改宗し、正室に家康の養女満天姫(まてひめ)を迎え、家康に影響力を持つ天海に近づくことは、そこに政治的配慮が働いていたとみられる。為信の長男信建(のぶたけ)は、慶長十二年(一六〇七)に京都で死去し、大徳寺山内に葬られたとみられる(田沢正「時慶卿記からみた津軽信建」『市史ひろさき』七)。信建は海蔵寺僧侶に帰依していたが、萬隆寺(ばんりゅうじ)(曹洞宗、現東京都台東区)の僧侶を支援していたため、同寺が江戸に再建された時に開基に推された。元和九年(一六二三)に離檀したが、信建の長男大熊、次男弁千代もここに葬られているので、一時期ではあるが信建一族の菩提寺になっていた。

図207.津梁院


図208.津梁院にある信枚墓所