信枚はそれまでの曹洞宗から天台宗に改宗し、正室に家康の養女満天姫(まてひめ)を迎え、家康に影響力を持つ天海に近づくことは、そこに政治的配慮が働いていたとみられる。為信の長男信建(のぶたけ)は、慶長十二年(一六〇七)に京都で死去し、大徳寺山内に葬られたとみられる(田沢正「時慶卿記からみた津軽信建」『市史ひろさき』七)。信建は海蔵寺の僧侶に帰依していたが、萬隆寺(ばんりゅうじ)(曹洞宗、現東京都台東区)の僧侶を支援していたため、同寺が江戸に再建された時に開基に推された。元和九年(一六二三)に離檀したが、信建の長男大熊、次男弁千代もここに葬られているので、一時期ではあるが信建一族の菩提寺になっていた。
図207.津梁院
図208.津梁院にある信枚墓所