本行寺

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本行寺(ほんぎょうじ)は、慶長十七年(一六一二)、元寺町にあった法立寺を改称したことに始まる(資料近世2No.四一〇、「重宝錦嚢(じゅうほうきんのう)」受源院蔵)。天正年間(一五七三~九一)為信は京都から日健(にちごん)を招き、家臣に兵法を講義させた。日健は本圀寺(ほんこくじ)(現京都市)一六世日禎より山・寺号の「妙法山本行寺」を与えられ、法立寺へ第五世として仮に入り、僧録所を命じられた。
 慶長五年(一六〇〇)、為信が関ヶ原の戦いに出陣中、堀越城内の三ツ目内玄蕃等の反乱を日健が和睦させた功により、寺領一〇〇石の寄進を受けたという。しかし、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」では為信からの寄進を五〇石とし、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」は信枚から三〇石、信義から二〇石、信寧から三〇石と俵子三〇俵、合わせて八〇石三〇俵の寄進としている。
 慶長年間(一五九六~一六一四)、法立寺堀越より弘前元寺町へ移ると、信枚は本行寺と改称させようとした。この時、法立寺四世日玉の弟子日正が、法立寺は本満寺の末寺で法華宗(日蓮宗)を領内に始めた寺であり、本行寺は本圀寺の末寺なので混乱を生じると信枚に訴えた。このため、信枚が新たに法立寺を建立することになった。慶安二年(一六四九)に類焼し、法立寺は新寺町へ移った。文化七年(一八一〇)、貞昌寺の出火によって類焼した際は、藩校稽古館の講堂を移して書院とした。

図221.本行寺