明治五年(一八七二)五月に、華士族、卒が農商の職業を営むことが許され、職業が自由化された。同年五月には青森県租税課の事務章程(同前No.一六三)が改定されたが、その内容は次のようなものである。
収租掛は、村々の高や反別を明らかにし、米を中心とする正租やその他の雑税につき、原由を知り、記帳、収納し、凶年や災害があった場合や荒地起返しがあった場合には増、減税し、新たな開墾地には高反別を定め、検見や検地を行い、旧慣や租税法を改正し、管内の平等を期すことが職務である。このことから、明治五年時点での租税制度が旧藩時代とほぼ同じであること、しかし、租税の改正の意思が表れていることがわかる。
勧業掛の職務は多様である。開墾や樹芸培養の監督や、養蚕、醸造、絞油、馬喰の職種につき鑑札を渡し、民間人で商業を営みたい旨の願があれば検査して許可の審議をし、工業、商業営業者の数を把握し、輸出入を管理し、養蚕、牧畜等の産業を盛んにすることがその内容である。この事務章程には、産業を管理し、税源として把握しようとする政策の意図が見える。また、統制、管理とともに、開墾をはじめ商業など、新たな産業の育成をも目指す意図があった。
地券掛は、田畑や屋敷地の売買や荒蕪山林の払い下げの折など、地券を作成して渡すことが職務となっている。地租改正以前に、土地売買が公認され、地券制度が整えられつつあった。
山林掛は、官林と私山の境界や、官林反別や木の数を明らかにし、山林の払い下げについての願出がある場合にこれに対応し、また、鉱山の事務を管掌し、受負などの願出が出た場合に対応して主務の省へ取り次ぐことが職務であった。
社会掛は、郡村で貯穀などを行い、凶年に窮民を救助し、夫食(ぶじき)、種籾を貸与する。
土木掛は、堤防、橋梁の修築を行い、水害を予防し、官費による修築を村費によるものに転換するなどの業務を行った。
営繕掛は、官舎や倉庫などの修理等を担当した。
駅逓掛は、郵便事業を盛んにし、陸運会社の設立を考え、人足運賃の監督などをするのが職務である。
明治六年に大区小区制が実施され、弘前は第三大区に組み入れられたが、それ以前の行政は、県が中心になって行っていた。その中で廃藩置県以後、旧来の仕組みを引き継ぎながら、行政事務とその施策の方向は、改革の方向へ進んできたのである。
廃藩置県以後、経済制度改革の動きは次第に進んだが、財政のあり方など旧来と同様の仕組みも多く残っていた。特に年貢は米納年貢制のままで、家禄等は貨幣での支払いが行われるなど、米や貨幣の混用も見られた。こうした経済状態で重要な役割を果たしたのが為替方であった。
青森県の為替方は小野善助率いる小野組であった。小野組は、三井組、島田組とともに全国の府県の為替方を三分する勢力を持つ豪商であった。明治八年に小野組と島田組は破綻(はたん)し、その影響は青森県にとっても大きかった。弘前にも小野組の出店があり、八人の店員が活動していた。同組は為替方を務め、県の財政に深く関与しており、また、米の売買や鉱山の経営も行っていた。同組の破綻は地租改正の開始期と合致しており、米の売買に関する同組の機能は、重要性が薄らいでいた。
小野組破綻のあと、青森県為替方に任ぜられたのは三井組であり、公金を取り扱った。