表14 国立銀行設立状況 |
年度 | 行数 | 資本金 | 発行紙幣高 |
明治 9 | 12 | 21,176,100円 | 19,340,880円 |
〃 10 | 27 | 3,230,000円 | 2,584,000円 |
〃 11 | 109 | 12,545,000円 | 9,628,000円 |
〃 12 | 5 | 775,000円 | 556,000円 |
計 | 153 | 37,726,100円 | 32,108,880円 |
前掲『第五十九銀行六十五年史』上 |
弘前においては、明治九年十二月に青森県令山田秀典から第三大区長大道寺繁禎へ国立銀行設立に関する内達がきたことで(資料近・現代1No.二〇九)、設立の気運が高まってくる。そこで大道寺区長、蒲田(かつぎた)副区長らは第三大区区務所へ弘前各町用係および総代を集め、銀行設立について協議したが、賛同者が三百余名にもなったため、翌十年三月に大道寺繁禎、蒲田昌清、松野幹、芹川高正、神源治、横島彦八、谷口永太郎の七名が発起人となって設立に着手することとなった。
大道寺らは銀行設立にあたり、第一国立銀行頭取で、わが国経済界の重鎮である渋沢栄一から教示を仰ぐが、「青森県下銀行創立方法大意」(同前No.二一〇)において、渋沢が「青森県下士族相連合して、其下付せらるへき禄券を輯(しゅう)集し、之をして東京第一国立銀行に合本し、以て其家産を固確ならしめんと欲するの考案は」と述べていることから、当初の銀行設立計画は、県下士族らの禄券を集めて第一国立銀行に出資し、本県に支店を開設してもらうものだった。しかし、その計画は渋沢の同意を得られなかった。渋沢は同資料(同前No.二一〇)においてその理由を二つ述べている。
一つ目は「第一国立銀行は其資本を以て既に四年の営業を為すに、未た其資本額の不足を覚えす、而して其実験と練磨とによりて聊(いささ)か稠衆の信任を徴するは、決て資本の多きに由らすして勉力の篤きに帰す、然則今日敢て欲望せさるの資本額を増して既に成るの実利を分つは、銀行株主等の之を肯首せさる所ならん」と、現在のところ第一国立銀行の資本は不足しておらず、それをあえて増資して株主を増やすと、一人当たりの配当額が減ることになり、現株主の了解が得られないということである。二つ目は「禄券売買のことは今日政府の許可せさる所たれは、之を銀行へ売却するも或は其允許(いんきょ)を得かたからん、而して其禄券と株式との売買受授に於るも、其価格を定むるに当りて、多少難地なしと云う可らす」と、今のところ金禄公債の売買は禁止されており、もし願いが認められ許可されても公債と株式の売買価格を定めるのは困難だろうとのことであった。
そこで渋沢は、大道寺らに独立した銀行の起業を勧め、その手順を一〇の項目で示している(同前No.二一〇)。それには、第一国立銀行が新設銀行行員を研修生として受け入れ、銀行経営者を養成すること。また、青森県内に第一国立銀行の営業所を開設し、為替の事務を三井銀行に代わって担当することなどが示されており、銀行新設のための親身な協力姿勢がうかがえる。