(一)チャールズ・H・H・ウォルフ Charles H. H. Wolff(一八四〇-一九一九)
最初に招聘されてきたウォルフはオランダ改革派の宣教師である。ウォルフの給料は月額二〇〇円、夫人が「教料」として五〇円であり、当時の結社人筆頭に名前が出ている兼松成言でさえ月額七円であった日本人教師の給料に比してきわめて高額であった。旧藩主津軽承昭が開学資金として提供した五〇〇〇円の大半が外国人教師雇用に充てられていたことになり、当時の関係者の洋学に対する意気込みが窺われる。
ウォルフによって、東奥義塾の生徒たちは、初めて本物の外国語に触れることになった。ウォルフ夫人も教壇に立ち、リーダーを教えた。それまで発音にこだわらず訳を重視する学習方法をとっていた生徒たちは、このときから発音に留意して学習するようになり、生きた英語を学べるようになったことは、津軽の青年たちに大きな希望をもたらした。また、「西洋人」が教えていることを知り、津軽地方だけではなく、会津から下北地方に移住した旧斗南藩の人々も東奥義塾に入学し、その中には、後に「東海散士」の筆名でベストセラー『佳人之奇遇』を著した柴四郎なども入っていた。
一年の在任期間を終え、ウォルフは弘前を離れた。後任はアーサー・C・マックレーであった。
写真41 ウォルフを囲んで(明治6年)
(二)アーサー・C・マックレー Arthur Collins Maclay(一八五三-一九三〇)
マックレーは、メソジスト監督教会日本ミッションの創設者であるロバート・S・マックレーの次男である。月給一五〇円で東奥義塾教師として雇用されたが、在任期間は半年ほどで、明治七年(一八七三)十一月十一日に弘前を離れた。
写真42 マックレー
マックレーは、東奥義塾在職中の記録がほとんどなく、あまり注目されていなかった人物である。近年、研究が進んでその足跡が明らかにされるようになった。当時の在学生とほとんど同年代であったマックレーは、若い教師として東奥義塾生にさまざまな影響を与えた。たとえば伊東重は、養生会を設立した理由として、日々運動を怠らず体を鍛えるのに熱心だったマックレーの健康観の影響を受けたことを伝えている。
また、マックレーは弘前を離れた後、一八七八年にアメリカに帰国したが、その後日本でのみずからの体験を書簡集の形でまとめて、明治十九年(一八八六)にアメリカで出版した。その中には、半年間の弘前での体験も含まれ、廃藩後の市内や東奥義塾の様子が数多く語られている。特に教えた生徒たちについては、その勤勉さや優秀さ、漢学の影響を受けた学習方法などを書き残しており、当時を知るうえでの貴重な記録となっている。たとえばマックレーは東奥義塾生を次のように紹介している。
この学校は前の大名によって援助されています。ここの人々の学ぶことに対する意欲や努力は、称賛せずにはいられません。学生たちは全部で約八〇名です。彼らは全員侍の子息です。ここでは平民が学校に来ることはまだ一般的ではありません。彼らと知り合うにつれ、皆、優れた学生たちであることがわかります。最初に私が教室に入っていったとき、彼らがみな同じように見え、どうやって見分けたらいいのかとても困惑しました。彼らは皆礼儀正しく、やるべきことはきちんとやります。学生たちの平均年令は十六才です。
(Maclay,Arthur C., A Budget of Letters from Japan: Reminscences of Work and Travel in Japan, A. C. Armstrong & Son, 1886、八三頁)
草創期の東奥義塾生たちについて外国人が書いた文章としては、他に英国人探検家であるイザベラ・バードの『日本奥地紀行』があるが、マックレーはこうした東奥義塾の様子に加えて、単身で着任したことによる生活上の苦労も書き残した。彼は契約更新はせずに弘前を去ったが、その心境を次のように述べている。
今東奥義塾と学生たちに別れを告げなければならないことは、僕にとって後悔にも似た感があります。彼らは八ヵ月の間僕の仲間でした。とても親切で、ここにいる間、どこへいくにも好意をもって付き添ってくれました。授業においては勤勉で、教室でも礼儀正しかった。もし僕がもう一年ここで教えれば、楽しめるだろうと思います。しかし孤独な生活に僕は疲れ果ててしまいました。
(Maclay、前掲書一二五-一二六頁)
写真43 マックレーの著書に掲載された岩木山
去りがたい思いとともに弘前を旅立つ日、マックレーは感動的な別れを経験することになった。学校関係者や生徒たちは心からの謝意を述べ、小雪がちらつく寒風の中で目に涙を浮かべて、彼の姿が見えなくなるまで、身じろぎもせずに見送った。その光景は、若いマックレーの脳裏に焼きつき、決して忘れえないものになったという。こうして彼の弘前での体験は終わっている。
マックレーは弘前を離れた後、東京、京都で教鞭をとり、前述のように一八七八年に帰国した。その後弁護士となるが、そのかたわらジャパノロジストとして日本を紹介する活動を精力的にこなした。亡くなったのは一九三〇年(昭和五)十一月十一日。奇しくも、弘前を去った日からちょうど五六年後であった。
写真44 マックレーの旅費に関する記録
(三)ジョン・イング John Ing(一八四〇-一九二〇)
マックレーの後任となったのは、津軽地方にりんごを伝えた人物として知られるジョン・イングである。イングは、マックレー同様宣教師の息子としてアメリカに生まれた。一度軍隊に入って大尉となった後、牧師を目指してインディアナ州のインディアナ・アズベリー大学(現在のデポー大学)に入学した。同校を優秀な成績で卒業した後、夫人ルーシーとともに中国に宣教に向かった。同地での四年間の宣教活動の後、帰国途中に立ち寄った横浜で東奥義塾関係者と出会い、教師として本多庸一とともに弘前に着任した。
弘前に来てからのイング夫妻の活躍は、半ば伝説化している。特にキリスト教は、後述のようにめざましい広がり方を見せた。ほかにもキリスト教の人権思想から来る男女平等思想や、讚美歌をはじめとした西洋音楽を伝え、それまで津軽地方では知られていなかった西洋の野菜や料理方法、編み物なども教えた。こうして数々挙げられる貢献の中でも、学術面での指導の成果は、教師としてのイング夫妻の面目躍如たるものがあった。これについても、次節で改めて述べる。
イング夫妻は一八七八年三月に、任期を四ヵ月ほど残して弘前を離れた。理由は夫人ルーシーの健康問題であったとされる。別れに際して弘前の人々はいつまでも離れようとせず、とうとうイング夫人が、もう帰るようにと人々を諭したという。帰国してからもルーシーの健康はすぐれず、約三年後の明治十四年四月十五日、帰らぬ人となった。享年四十三歳。まさに宣教と教育に尽くした人生だった。当時東奥義塾からインディアナ・アズベリー大学に留学していた佐藤愛麿が、東奥義塾生を代表して弔辞を捧げている。イングはその後一切の宣教活動から身を引いたが、東奥義塾関係者との交流は続いた。イングに寄り添うようにして弘前での活動を支えた本多庸一は、後に渡米してイングと再会し、その喜びを、「互ニ手ヲ執リシモ涙先ツテ言出テス先生モ亦喜ビ極リシ者ノ如ク共ニ天ニ向テ熱心ニ感謝シタリキ……我東奥義塾ハ東奥ノ僻隅ニアリナカラ猶数千里外ノ異郷ニ知己アリトスレバ亦尋常ノ学校ニアラサル哉ト思ハレタリ」と述懐した(『学友通信』二六号、明治二十三年九月)。また、教え子の珍田捨巳と佐藤愛麿が二人続いてアメリカ大使として着任したとき、二人はともに恩師イングへの表敬訪問を行い、感動的な再会を果たしている。
(四)ウィリアム・C・デービッドソン William C. Davidson(一八四八-一九〇三)
イングの後任となったのは、インディアナ・アズベリー大学の後輩でもあるデービッドソンであった。デービッドソンは一八四八年三月三十一日生まれで、一八六九年にノースウエストインディアナ・コンフェレンスに所属した。一八七〇年から一八七六年までインディアナ・アズベリー大学で学ぶ一方、グリーンキャッスル近郊で牧師を勤めた。明治十年(一八七七)に来日、イングの後任として弘前に到着したのは明治十一年二月のことであり、着任のきっかけはイングの紹介であった。
デービッドソン在職中の東奥義塾は、中学校としての学則も整い、アメリカにも留学生を送り出した後であり、いわば最盛期にあった。明治十一年九月から十一月にかけて岩手と青森の学事巡視を行った文部大書記官西村茂樹も、その水準の高さを絶賛している。しかし、その割にデービッドソンの在職期間は短く、明治十一年の冬に、東奥義塾を離れた。
(五) ロバート・F・カール Robert F. Kerr(一八五〇-一九二一)
デービッドソンの後任は、やはりインディアナ・アズベリー大学卒業生のロバート・F・カールである。カールは大学卒業後一八七七年から一八七八年までインディアナ州ケントランドの学校で教えた後、東奥義塾の教師として来日した。弘前に到着したのは、六月十三日である。その着任の背景には、一八七七年にインディアナ・アズベリー大学に留学した珍田捨巳や佐藤愛麿等の尽力があった。カールに関連する資料としては、インディアナ州のデポー大学図書館に、彼自身による日記などが残されている。
カール自身は、東奥義塾の仕事を貴重なものと感じ、ときには学校関係者と夕食をともにするなどして弘前の生活に溶け込んでいたが、わずか一年ほどで同校を去った。理由はひとえに東奥義塾の財政難であった。
カールが七月末に弘前を去ったことで、ウォルフ以来続いた東奥義塾外国人教師招聘は途切れた。イングが明治七年末に弘前に来て以来、東奥義塾で教鞭をとった外国人教師は、三代続けてインディアナ・アズベリー大学出身者であった。
写真45 カール